初恋はまだ終わらない、隣の席で
第15話 記事が街を動かす

 五月半ばの朝、町役場の広報課へ向かう麻美の足取りは、いつもより少し速かった。昨夜遅く、滉矢から「一度、話したいことがあります」と連絡が来たのだ。件名は、特集連動の地域企画について。予算削減の話が出ている今、その連絡は小さくない。

 役場の二階にある広報課は、机の上に紙の山があるのに不思議と整って見えた。滉矢は窓際の席から立ち上がり、麻美へ資料の入ったクリアファイルを差し出す。

「急に呼んですみません」
「いえ。むしろ助かります」
 
 滉矢は笑いすぎない顔で椅子を勧めた。会議室ではなく、広報課の隅の打ち合わせスペースだ。四人掛けのテーブルに湯呑みが二つ置かれる。

「今の特集、役場にも感想が来てます」
「役場に?」
「商店街の回遊と絡めて見てる人がいるんです。記事を読んで、掲載された店へ行ったという声も、何件か」
 
 麻美は思わず身を乗り出した。
「本当に?」
「数字はまだ小さいです。でも、動きとしてはあります」
 
 滉矢はファイルの中から簡単な集計メモを見せた。掲載後一週間で、文明の来客数がわずかに増えたこと、パン屋では午後の売れ残りが減ったこと、商店街の掲示板に貼った「恋の聞き書き、はじめました」の告知に足を止める人が増えたこと。どれも大きな数字ではない。けれど、紙の上の言葉が人の足を動かした証拠だった。

「うまくいけば、追加の連動案も通しやすくなります」
「連動案?」
「身近な恋の風景を、町の中で拾ってもらう企画です。写真でも、短い文章でも」
 
 滉矢の指先は資料の要点だけを静かに追う。押しつけるでもなく、自分の手柄にするでもなく、ただ前へ進む形だけを示してくる話し方だった。

 役場を出たあと、麻美はその足で編集部へ戻った。資料を机へ広げ、編集長へ報告すると、編集長はいつもより長く黙ってから、低く言った。
「……動いたな」
「はい」
「数字としては小さい。でも、こっちが狙ってた方向には合ってる」
 
 その評価だけで、胸の奥がふっと軽くなる。

 瑞葉も資料を覗き込み、
「これなら予算会議で言いやすい」
と短く言った。妙依は数字の横へ付箋を貼りながら、
「読後に行動が変わる記事、強いです」
と一行だけ残す。

 午後、明が撮影から戻ってきた。麻美は資料をそのまま見せた。明は最後のページまで黙って目を通し、ふっと息を吐く。

「よかった」
「うん」
「記事が、ちゃんと外に出てる」
 
 外に出てる。その言い方がよかった。誌面の中で閉じず、町の中へ出ていく。麻美は急に、自分の仕事の輪郭が少し変わった気がした。ただ書いて載せるのではない。書いたものが、人の足もとへ降りていくのだ。

「麻美、すごいな」
 
 明が何でもない顔で言う。あまりに自然な口調だったから、麻美は一瞬聞き返しそうになった。

「私?」
「ほかに誰がいる」
「いや、みんなでやってるし」
「そうだけど、最初に拾ったのは麻美だろ」
 
 その一言が、まっすぐ胸へ入る。末っ子のお姫様。家で軽く呼ばれるたび、笑って流してきた言葉。守られる側、任されない側。そこから抜けたいと思いながら、どこかで自分でも甘えていたのかもしれない。

 でも今、手元にある資料は、自分が動いた結果だった。聞きに行って、書いて、載せて、また次を拾おうとした先で起きた変化だ。誇っていいのかもしれない。少なくとも、少しは。

 その日の夕方、「文明」へ見本誌と資料を届けに行くと、晃聡が開口一番に言った。
「最近、夕方の客がちょっと増えた」
「ほんとに?」
「ほんとに。おまえらの記事読んだって言う人、三人いた」
「三人」
「三人も、だろ」
 
 晃聡はそう言って、カップを磨きながら照れたように笑った。店を褒められるより、店が動き始めたことを喜んでいる顔だった。

 明は窓際からその様子を撮ろうとして、途中でカメラを下ろした。
「なんで撮らないの」
 麻美が訊くと、
「今は撮るより見ときたい」
と答える。
 
 その返事が少し意外で、でも、らしいとも思った。写すために見るのではなく、まず見ていたいと思うこと。その順番が変わってきているのだろう。

 夜、店を出たあと、二人で商店街の掲示板の前を通った。麻美が作った告知文の隣に、役場の広報課が急きょ作った小さな案内が貼られている。『あなたの身近な恋の風景、募集します』。写真でも文章でも可、とある。

「動くの、早いね」
 麻美が言う。
「滉矢さん、こういう時だけ異常に早い」
「こういう時だけって」
「普段も早いけど」
 
 笑い合いながら、二人はしばらく掲示板を見ていた。紙は風に少しだけ揺れている。始まりは、だいたいきれいじゃない。明が前にそう言ったことを、麻美は思い出した。けれど、少しくらい端がめくれていても、伝わるものはちゃんと伝わる。

 その夜、明の携帯には、また東京からのメールが届いた。今回は電話の希望時間まで書かれている。大きな連載の正式オファー。写真家としては断りにくい話だ。明は街灯の下で一度だけ画面を見て、すぐにポケットへしまった。

 麻美はその横顔をちらりと見たが、何も訊かなかった。まだ言葉になっていないものを、急いで引き出したくはない。

 ただ、明の目が自分へ向くたび、そこに以前よりはっきりしたものがあるのは感じていた。昔好きだった男の子、ではなく、今ここで同じ仕事をしている人として、自分を見てくれている。その視線の中に尊敬が混じっていると気づいた時、恋は少しだけ別の深さを持つ。

 駅へ向かう分かれ道で、麻美は資料の入った鞄を肩へ掛け直した。今日は少し重い。けれど、その重さが嫌ではない。自分で持てる重さだと知ったからだ。

 明が言う。
「明日、役場の件、もう少し詳しく聞かせて」
「うん」
「写真の合わせ方、考えたい」
「わかった」
 
 仕事の話なのに、それだけで明日が少し楽しみになる。

 麻美は駅前のガラスへ映った自分を、ふと見た。前より少しだけ、立っている感じが違う。誰かに守られている人ではなく、自分の足で仕事の場所へ立っている人の顔をしている気がした。

 小さな誇りというのは、胸を張るほどではなくても、歩く速さを少しだけ変える。そんな夜だった。
【終】


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