初恋はまだ終わらない、隣の席で
第16話 彩奏のレッスン室

 雨の名残りを含んだ風が、ピアノ教室の玄関先の鉢植えを細かく揺らしていた。六月に入ったばかりの午後、麻美は仕事用の鞄の内ポケットを何度も確かめながら、彩奏の教室の前で立ち止まった。薄い布に包んだマホガニーオブシディアンが、そこにちゃんと入っている。返しに来ただけだ。そう思うのに、胸の奥だけが妙に落ち着かなかった。

 扉を開けると、教室の中にはまだレッスンの余韻が残っていた。小さな子どもが弾いたばかりらしい音の粒が、閉じきらない空気のなかでゆっくり沈んでいく。譜面台の横には、飲みかけの麦茶。窓辺のレース越しに入る光が、床に白く伸びていた。

「いらっしゃい」
 
 彩奏は子どもの楽譜を閉じながら振り返った。相手を驚かせない声の出し方を、昔から知っている人だ。麻美が布包みを差し出すと、彩奏はすぐには受け取らなかった。

「ありがとう。でも、その顔だと、石だけ返しに来たんじゃなさそう」
「そんな顔してる?」
「してる。あと、会ったあと、呼吸が少し深くなってる」
 
 麻美は思わず笑ってしまった。まだ好きなんでしょ、と断定しないところが彩奏らしい。逃げ道を残しながら、でも、こぼれそうな本音の近くまでちゃんと来る。

「何それ」
「胸が忙しい時って、息が浅くなるでしょ。逆に、大事な人のそばにいて少し安心すると、ちゃんと空気が入る」
「大事な人って」
「私は名前言ってないよ」
 
 言い返しかけて、麻美はやめた。反論がそのまま認めることになりそうだったからだ。彩奏はくすりとも笑わず、ただ椅子をひとつ勧める。座ると、ちょうど鍵盤の蓋の木目が目に入った。淡い傷がいくつもある。毎日人の指に触れられてきた楽器の表情だ。

「最近、明の写真、やさしいね」
 
 彩奏は麦茶の入ったグラスを二つ並べながら言った。
「そうかな」
「そうだよ。前は、ちゃんと見てるのに、触らないようにしてる感じだった。今は、見てるものの体温まで信じ始めた」
 
 麻美はグラスの水滴を指先でなぞった。信じ始めた。いい言葉だと思った。急に変わったのではなく、少しずつ、けれど確かに、同じ方向へ向いてきた感じがする。

 教室の隅では、レッスンを終えた子どもが母親を待ちながら、使いかけの色鉛筆で何かを描いていた。紙の上には、四角い店みたいなものと、丸い窓、長いテーブル。彩奏が覗き込み、
「これ、なあに」
と聞くと、
「きっさ店」
と誇らしげに返ってくる。
 
 文明のことだとわかって、麻美は胸がやわらかくなった。記事に載った場所は、読み手の頭の中でこんなふうに新しい絵になるのだろう。

 その時、玄関のベルが小さく鳴った。反射みたいに顔を上げると、扉の向こうに明がいた。肩からカメラを下げ、少し困ったように目を細めている。

「ごめん。町民ホールのピアノの件で、彩奏に確認あって」
「入って」
 
 彩奏が何でもない調子で答える。二人きりなら構えてしまったはずなのに、子どもの靴が並ぶ教室では、その緊張が半分ほど薄まった。

 明は麻美を見ると、足を止めた。
「来てたんだ」
「石、返しに」
「……ああ」
 
 それだけのやり取りなのに、背骨のあたりが少し熱くなる。明はすぐに彩奏へ向き直り、町民ホール改修の進行と、ピアノの移動の目安を聞き始めた。仕事の話だ。けれど、明が彩奏の説明を聞きながら、時々だけ麻美のほうへ視線を寄こすのがわかった。

「来月の後半なら、いったん戻す話はできそう」
 彩奏が言う。
「朗読とか小さい催しなら、音もそんなに荒れないと思う」
「まだ決まってないけど」
 麻美が口を挟む。
「でも、もしそうなったら、ピアノがあるといいなって思ってた」
 
 彩奏はそれに答えず、かわりに譜面台の角を整えた。
「そういうのって、先に思った人の方が、たいてい当たるよ」
 
 レッスンを終えた子どもたちが帰り、教室が少し静かになる。窓の外では、雨雲の切れ目から夕方の光が差していた。彩奏はそこでようやく、麻美から受け取った石を布ごと手に取った。しばらく見てから、
「今日は持って帰ってもいいよ」
と言う。
「え」
「返す日って、まだ今日じゃない気がする」
 
 その言葉の意味を訊く前に、明が小さく息を漏らした。笑ったのか、困ったのか、微妙な音だ。
「彩奏、そういう言い方ずるい」
「ずるいのは、ちゃんと言わない人のほうでしょ」
 
 麻美の耳が熱くなる。明は言い返せず、視線だけを逸らした。その横顔を見ていると、昔よりずっと大人になったはずなのに、追いつめられた時の不器用さは変わっていないのだと思う。

 帰り際、彩奏は玄関で麻美にだけ声を落とした。
「持ったまま帰るもの、ひとつくらいあってもいいよ」
「石のこと?」
「そういうことにしておく」
 
 結局、麻美は石を返せないまま鞄へしまった。教室を出ると、明が数歩先で待っていた。

「駅まで?」
「うん」
「じゃあ、途中まで」
 
 二人で歩き始めると、足もとの水たまりに薄い夕焼けが映っていた。避けて歩くたび、隣の人の気配も少しずつ近くなる。会話は町民ホールのこと、次号の取材先のこと、そんな話ばかりだったのに、麻美の呼吸は不思議と深かった。
【終】

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