初恋はまだ終わらない、隣の席で
第17話 瑞葉のブレーキ

 翌週の月曜日、編集部の空気は朝からわずかに張っていた。月曜というだけではない。次号の掲載枠をどう守るか、予算の話がずっと机の下で鳴っている感じがする。表向きは誰も大騒ぎしていないのに、紙を置く音や電話の受け答えが、いつもより少しだけ硬い。

 麻美は会議前の資料をまとめながら、先週のピアノ教室でのことを思い出していた。彩奏の言葉。明の、言い返せなかった顔。返しそびれた石の重み。頭の中のどこかがそちらへ引っ張られるたび、仕事へ戻るために自分で首筋を正す。

 午前の打ち合わせが終わったあと、瑞葉が経理席から顔を上げた。
「麻美、五分いい?」
 
 その声に、少しだけ覚えがあった。優しい相談の前置きではない。言いにくいことを言う時の声だ。給湯室の横の小さなスペースへ移ると、瑞葉は自動販売機で買った温かいお茶を一本、麻美へ渡した。まず何かを持たせてから本題に入るところも瑞葉らしい。

「最近、明さんとよく一緒にいるでしょ」
「仕事だからね」
「仕事だけ?」
 
 蓋を開ける手が止まりかけた。瑞葉は責める顔をしていなかった。ただ、数字を確認する時みたいに、まっすぐ見てくる。

「……何」
「中途半端に期待しない方がいい、って話」
 
 言われた瞬間、胸のどこかがきゅっと細くなる。瑞葉は続けた。

「また町を離れる可能性、あるよね。東京の仕事の話、来てるっぽいし」
「知ってるの?」
「経費の連絡先で少し見えただけ。詳しくは知らない」
 
 詳しくは知らない。でも、それで十分だった。麻美自身も、明の携帯画面に落ちた影の意味を何となく察していたからだ。

「麻美がどうしたいかは別として、相手が定まってない時に、自分の気持ちだけ先に進めるの、しんどいよ」
 
 冷たい言い方に聞こえかねないのに、瑞葉の指はペットボトルのラベルを細かくつまんでいた。珍しく、落ち着かない時の癖が出ている。

「瑞葉って、そういうとこあるよね」
 麻美は少しだけ笑おうとして失敗した。
「危ない方へ行く前に止めようとする」
「あるよ」
「私のこと、心配してるのはわかる。でも」
「でも、止められると余計に進みたくなる?」
 
 先回りされて、言葉が詰まる。

 瑞葉は壁にもたれたまま、窓の外を見た。隣のビルの非常階段に、洗い残した雨がまだ光っている。
「前にね、待つ側だったことがあるの」
 
 麻美は黙った。瑞葉が自分からこういう話をするのは珍しい。

「すぐ戻るって言われた。忙しいだけだって。連絡減っても、仕事なら仕方ないって、私の方が理由つけて待ってた。待ってる間って、相手の事情まで自分で補強し始めるから、終わる頃には自分が何を信じてたのか分からなくなる」
 
 淡々とした声なのに、その中に乾いた場所がある。痛かった記憶ほど、妙に整って話されることがある。

「だから、麻美に同じことしてほしくない」
 
 その一言で、瑞葉のきつさの中身が少し変わった。警告ではなく、防寒具みたいなものなのだ。厚すぎて動きにくいけれど、寒さを知っている人が選ぶ厚さ。

「でも、それって」
 麻美は小さく言う。
「相手がもう同じことするって決めつけることにもならない?」
 
 瑞葉はすぐには答えなかった。代わりに、
「そうだね」
と一度だけ認めた。
「私の悪い癖」
 
 その時、給湯室の外でかすかに足音がした。誰かが通り過ぎた気配。二人とも振り向かなかったけれど、そのあと編集室へ戻ると、明がコピー機の前で立っていた。手元の資料を見ているふりをしていたが、目の焦点が少し違う。

 聞こえたのだ、と麻美はすぐに分かった。

 午後のあいだ、明は必要なこと以外ほとんど喋らなかった。写真の配置案を見せる時も、声がいつもより低い。麻美もまた、何でもない顔を作るのに妙に力が要った。

 夕方、妙依が赤字の入った原稿を持ってきて、
「二段落目、心情が説明に寄りすぎです」
と指摘した時でさえ、麻美は一瞬意味が入ってこなかった。
「ごめん、もう一回」
「……珍しいですね」
 
 妙依がそう言うほど、集中が乱れていたのだろう。

 帰り際、明は編集部のドアの前で立ち止まった。
「今日、先帰って」
「え」
「俺、ちょっと寄るとこある」
 
 それだけ言って、先に階段を下りていく。追いかけようと思えば追えた。けれど、今はまだ、追っていい距離じゃない気もした。

 麻美は一人で駅前まで歩いた。夕方の商店街では、総菜屋の湯気が風に混じり、焼き魚の匂いが少しだけ制服の残る学生たちの列へ流れていく。身近な暮らしの匂いだ。自分たちは、ずっとそういうものを書いてきた。なのに、自分の恋の気配だけ、どうしてこんなに扱いが下手なのだろう。

 家に帰ると、鞄の内ポケットから石が指先に当たった。麻美は机の上の白いメモ帳の隣へ、そっと置く。黒く見える表面に、照明の角度で茶色い筋が浮かぶ。

 見えないから、ないわけじゃない。

 その言葉を思い出す。自分の気持ちも、明の迷いも、瑞葉の怖さも、まだ全部は見えていない。けれど、あることだけはもう知ってしまった。
【終】

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