初恋はまだ終わらない、隣の席で
第18話 風介の背中
六月の終わり、印刷所の奥は夜になるほど熱をためた。古い断裁機の油の匂い、紙をそろえる音、搬入口のシャッターの隙間から入る湿った風。締切前のまちあかり編集部がざわつく時、最終的に空気の濃さが増すのはいつもこの場所だった。
次号の校了が押し、麻美と明は夜になってから印刷所へ入った。風介はすでに軍手を片方だけ外した格好で、大きな束を持ち上げている。紙の重さを知っている人の腕の使い方だった。
「お。やっと来た」
「遅くなってすみません」
麻美が言うと、
「謝るのはいいから腹減ったか」
と返ってくる。
机の隅にはコンビニの袋が三つ置かれていた。おにぎり、味噌汁、紙コップのコーヒー。風介はこういう時、相手が遠慮する前に置いておく。
作業は一段落ごとに小さな会話を挟みながら進んだ。麻美は見出しの最終確認、明は写真の濃度チェック。風介は何も言わずに、二人の間へ必要なものを必要な順に滑り込ませる。重い紙束を運ぶ背中は、たいてい余計なことを喋らない。そのぶん、言葉を出す時は芯に当たる。
零時近く、ようやくひと区切りついた頃、麻美は校正の束を持って二階の仮眠スペースへ上がった。残りのページを確認しているうちに、下から風介と明の声がかすかに聞こえた。最初は聞くつもりはなかった。ただ、階段の途中で、風介の声の強さが少しだけ変わったのが分かった。
「守るってのは、黙ることじゃねえよ」
足が止まる。
麻美は咄嗟に戻るべきだと思った。けれど、その一言のあとに続いた沈黙が長くて、動けなかった。階段の踊り場から見下ろすと、明は搬入口の前に置かれた木箱へ腰をかけていた。風介は立ったまま、自動販売機の缶コーヒーを一本、指先で回している。
「分かってる」
明が言う。
「分かってるけど、あの時は、何言っても言い訳になる気がした」
「じゃあ今は」
「今も、事情だけ並べたら遅すぎる」
風介が鼻で息を抜いた。
「遅いのと、言わないのは別だべ」
東北訛りがまじる。責めるより先に、地面を固めるみたいな言い方だった。
明はしばらく黙っていたが、やがて低い声で話し始めた。
「高校卒業の三日前だった。父親が倒れて、保証人絡みの整理が一気にきて、家を残せなくなった。母親一人で抱えるには無理だったから、東京の叔母のところ行くしかなくて」
搬入口の外で、どこかの車が水たまりを踏む音がした。明の言葉は、そこで一度切れる。
「携帯も止めた。進学の話も白紙になった。町に残る前提で考えてたこと、全部崩れて、……情けなかった」
「情けなくても、口はあったろ」
「うん」
否定しないところが、よけいに痛い。
「麻美に会ったら、たぶん顔に出ると思った。好きだったから。好きなやつに、一番みっともない時の自分を見せるの、怖かった」
麻美の指先から、校正の束が少しだけずれた。好きだった。過去形のその言葉が、階段の途中でひどく小さく、それでいてはっきり聞こえた。
風介は木箱の角を軽く蹴った。
「好きだった、じゃ足りねえ顔してんだよ」
「うるさい」
「うるさく言う役、俺しかいねえだろ」
その声に、少しだけ救われるような笑いが混じる。
「事情があったのは分かった」
風介は続けた。
「でもな、今の口で言え。昔の自分が言えなかったことを、今の自分まで引きずるな」
明は返事をしなかった。ただ、俯いたまま缶コーヒーのふたを開けようとして、うまく開かず、もう一度やり直した。
麻美はそこでようやく階段を上がりきり、資料棚の影へ身を引いた。聞くつもりで聞いたわけじゃない。けれど、聞いてしまった言葉は戻らない。胸の奥がざわつく。事情は分かった。けれど、分かったことと、あの時の寂しさが消えることは、たぶん別だ。
下ではさらに声が続いていた。
「麻美のこともな」
風介が言う。
「頼られねえと寂しいくせに、自分が頼るのは怖いだろ」
今度は麻美の方が息を止めた。明に向けた言葉ではない。風介は、そこに本人がいない時ほど正確なことを言う。
「……そうかも」
明の声が答える。
「似たもん同士って、一番ややこしい」
そのあと、風介が階段を上がってくる足音がした。麻美は慌てて二階の机へ資料を広げる。風介は何も言わず、冷めたおにぎりと紙コップの味噌汁を置いただけだった。けれど、去り際に一度だけ言う。
「食っとけ。考えるのは腹減ってない時にしろ」
まるで全部知っているみたいな口調だ。実際、たぶんだいぶ知っている。
校了が終わったのは一時を回ってからだった。帰り道、印刷所の前で麻美は明と並んだ。夜更けの道路は車も少なく、街灯の下だけが白い。
「遅くなったね」
麻美が言う。
「うん」
明はそれ以上何も続けなかった。いつもならここで仕事の確認か、次の予定の話をするのに、今夜は口元に言葉が引っかかっているのが見えた。
麻美もまた、何を聞けばいいのか分からない。事情を知ってしまったことを言うべきではない気がしたし、知らない顔を続けるのも息苦しかった。
結局、駅までの道では、信号の色と、傘立てが片付いていた店の話と、明日の天気のことしか話さなかった。
別れたあと、麻美は振り返らなかった。振り返れば、きっと顔に出る。知ってしまったことと、まだ許していないことの両方が。
けれど、前へ進んでいる感じもあった。痛い方へ、でも、ごまかさずに。
【終】
六月の終わり、印刷所の奥は夜になるほど熱をためた。古い断裁機の油の匂い、紙をそろえる音、搬入口のシャッターの隙間から入る湿った風。締切前のまちあかり編集部がざわつく時、最終的に空気の濃さが増すのはいつもこの場所だった。
次号の校了が押し、麻美と明は夜になってから印刷所へ入った。風介はすでに軍手を片方だけ外した格好で、大きな束を持ち上げている。紙の重さを知っている人の腕の使い方だった。
「お。やっと来た」
「遅くなってすみません」
麻美が言うと、
「謝るのはいいから腹減ったか」
と返ってくる。
机の隅にはコンビニの袋が三つ置かれていた。おにぎり、味噌汁、紙コップのコーヒー。風介はこういう時、相手が遠慮する前に置いておく。
作業は一段落ごとに小さな会話を挟みながら進んだ。麻美は見出しの最終確認、明は写真の濃度チェック。風介は何も言わずに、二人の間へ必要なものを必要な順に滑り込ませる。重い紙束を運ぶ背中は、たいてい余計なことを喋らない。そのぶん、言葉を出す時は芯に当たる。
零時近く、ようやくひと区切りついた頃、麻美は校正の束を持って二階の仮眠スペースへ上がった。残りのページを確認しているうちに、下から風介と明の声がかすかに聞こえた。最初は聞くつもりはなかった。ただ、階段の途中で、風介の声の強さが少しだけ変わったのが分かった。
「守るってのは、黙ることじゃねえよ」
足が止まる。
麻美は咄嗟に戻るべきだと思った。けれど、その一言のあとに続いた沈黙が長くて、動けなかった。階段の踊り場から見下ろすと、明は搬入口の前に置かれた木箱へ腰をかけていた。風介は立ったまま、自動販売機の缶コーヒーを一本、指先で回している。
「分かってる」
明が言う。
「分かってるけど、あの時は、何言っても言い訳になる気がした」
「じゃあ今は」
「今も、事情だけ並べたら遅すぎる」
風介が鼻で息を抜いた。
「遅いのと、言わないのは別だべ」
東北訛りがまじる。責めるより先に、地面を固めるみたいな言い方だった。
明はしばらく黙っていたが、やがて低い声で話し始めた。
「高校卒業の三日前だった。父親が倒れて、保証人絡みの整理が一気にきて、家を残せなくなった。母親一人で抱えるには無理だったから、東京の叔母のところ行くしかなくて」
搬入口の外で、どこかの車が水たまりを踏む音がした。明の言葉は、そこで一度切れる。
「携帯も止めた。進学の話も白紙になった。町に残る前提で考えてたこと、全部崩れて、……情けなかった」
「情けなくても、口はあったろ」
「うん」
否定しないところが、よけいに痛い。
「麻美に会ったら、たぶん顔に出ると思った。好きだったから。好きなやつに、一番みっともない時の自分を見せるの、怖かった」
麻美の指先から、校正の束が少しだけずれた。好きだった。過去形のその言葉が、階段の途中でひどく小さく、それでいてはっきり聞こえた。
風介は木箱の角を軽く蹴った。
「好きだった、じゃ足りねえ顔してんだよ」
「うるさい」
「うるさく言う役、俺しかいねえだろ」
その声に、少しだけ救われるような笑いが混じる。
「事情があったのは分かった」
風介は続けた。
「でもな、今の口で言え。昔の自分が言えなかったことを、今の自分まで引きずるな」
明は返事をしなかった。ただ、俯いたまま缶コーヒーのふたを開けようとして、うまく開かず、もう一度やり直した。
麻美はそこでようやく階段を上がりきり、資料棚の影へ身を引いた。聞くつもりで聞いたわけじゃない。けれど、聞いてしまった言葉は戻らない。胸の奥がざわつく。事情は分かった。けれど、分かったことと、あの時の寂しさが消えることは、たぶん別だ。
下ではさらに声が続いていた。
「麻美のこともな」
風介が言う。
「頼られねえと寂しいくせに、自分が頼るのは怖いだろ」
今度は麻美の方が息を止めた。明に向けた言葉ではない。風介は、そこに本人がいない時ほど正確なことを言う。
「……そうかも」
明の声が答える。
「似たもん同士って、一番ややこしい」
そのあと、風介が階段を上がってくる足音がした。麻美は慌てて二階の机へ資料を広げる。風介は何も言わず、冷めたおにぎりと紙コップの味噌汁を置いただけだった。けれど、去り際に一度だけ言う。
「食っとけ。考えるのは腹減ってない時にしろ」
まるで全部知っているみたいな口調だ。実際、たぶんだいぶ知っている。
校了が終わったのは一時を回ってからだった。帰り道、印刷所の前で麻美は明と並んだ。夜更けの道路は車も少なく、街灯の下だけが白い。
「遅くなったね」
麻美が言う。
「うん」
明はそれ以上何も続けなかった。いつもならここで仕事の確認か、次の予定の話をするのに、今夜は口元に言葉が引っかかっているのが見えた。
麻美もまた、何を聞けばいいのか分からない。事情を知ってしまったことを言うべきではない気がしたし、知らない顔を続けるのも息苦しかった。
結局、駅までの道では、信号の色と、傘立てが片付いていた店の話と、明日の天気のことしか話さなかった。
別れたあと、麻美は振り返らなかった。振り返れば、きっと顔に出る。知ってしまったことと、まだ許していないことの両方が。
けれど、前へ進んでいる感じもあった。痛い方へ、でも、ごまかさずに。
【終】