初恋はまだ終わらない、隣の席で
第19話 妙依の無愛想な励まし
七月に入ると、編集部の冷房は効きすぎたり足りなかったりを一日の中で繰り返した。午前中は寒いのに、夕方には紙と人の熱でむしっとする。誰かが温度を上げれば、別の誰かが黙って一度下げる。そんな小さな攻防がある日ほど、締切は近い。
麻美は連載第四回の原稿を前に、珍しく手が止まっていた。取材対象の夫婦は、派手な告白も波乱もない二人だった。朝の味噌汁の濃さで機嫌が分かるとか、帰宅時間に合わせて玄関灯をつけておくとか、そういう積み重ねを丁寧に書けばいい。頭では分かっている。けれど、いざ自分の言葉へ落とそうとすると、妙なところで筆が重くなる。
見えているものを書けばいいはずなのに、自分のことだけ見えていない気がした。
昼過ぎ、妙依が赤ペンを片手に麻美の机へ来た。相変わらず無駄のない歩き方だ。原稿を一枚持ち上げ、黙って読み、すぐに余白へ赤を入れていく。
「ここ」
と、二段落目を指す。
「取材相手の恋は丁寧なのに、自分のことになると雑ですね」
麻美は顔を上げた。
「え」
「この言い回し、急に安全な場所へ逃げてます」
「安全な場所」
「一般論に引っ込んでる」
言われてみればそうだった。夫婦のやり取りのあとに続くまとめの一文が、急に教科書みたいになっている。麻美は紙を引き寄せた。『長く続く関係には日々の積み重ねが大切である』。確かに、誰が書いても同じだ。
「痛い方を削ると、急に人の話じゃなくなります」
妙依は淡々と言う。
「編集してる時って、たぶん自分がいちばんばれる」
まっすぐすぎて、反論の余地がない。麻美は椅子へ背を預けたまま、小さく息を吐いた。
「妙依って、時々すごく痛いこと言うよね」
「時々じゃないです。わりといつもです」
その通りすぎて笑うしかない。すると、ちょうどそこへ晃聡が差し入れの紙袋をぶら下げて現れた。文明の焼き菓子と、冷やしたコーヒーゼリー。編集部に来るたび、晃聡は誰かしらの手を止めていく。
「差し入れ。働く人間は甘いもん食え」
「ありがとうございます」
麻美が受け取る横で、晃聡は妙依の机にも袋を置いた。
「ほら、おまえの分」
「ありがとうございます」
「それだけ?」
「はい」
「もっとこう、ちょっと笑うとか」
「業務外です」
編集部の何人かがくすっとする。晃聡はわざとらしく肩を落とし、
「毎回塩対応の更新記録伸ばしてくるなあ」
と言った。
「店主としては固定客を大事にしたいんだけど」
「来なくて大丈夫です」
「それは傷つく」
そのやり取りのおかげで、机の上の重い空気が一度ほどけた。
晃聡が去ったあと、妙依はコーヒーゼリーの蓋を開けもせず、麻美の原稿に視線を戻した。
「言いそびれた言葉って、だいたい美化されます」
麻美は思わず手を止める。
「言われなかったことの方が、勝手に都合よくなる。ちゃんと言われた言葉の方が、案外、残るんですよ」
その言葉が、昨夜印刷所で聞いてしまった明の声と、妙に重なった。好きだった。過去形のままでも、ちゃんと残る声。けれど、今欲しいのは、たぶんそこではない。
「妙依」
「はい」
「なんでそんな、たまに恋愛相談みたいなこと言えるの」
「相談じゃないです。原稿の話です」
そっけないのに、逃がさない。
夕方、麻美は赤の入った原稿を全部見直し、書き直し始めた。一般論で逃げた一文を削り、代わりに、取材先の妻が味噌汁の鍋に蓋を戻す時の手つきと、夫が黙って椅子を引く速さを書き足した。言葉を足すたび、自分が見ていたものの輪郭が戻ってくる。
明が外回りから帰ってきたのは、その途中だった。
「進んでる?」
「やり直し中」
「どこ」
麻美が原稿を見せると、明は赤の多さに少しだけ眉を上げた。
「結構、切られたね」
「安全なとこへ逃げてたらしい」
明は紙の余白を見ながら、小さく笑った。
「妙依さん、そこ厳しいよな」
「うん。でも正しい」
正しい。そう言い切ると、胸の中で何かが少し整った。
夜、原稿を上げたあと、麻美は一人で残った編集部の窓を少し開けた。外から入ってくる風はまだぬるい。けれど、昼間よりは息がしやすい。
言われなかったことに囚われるのは、楽だ。そこには、自分で勝手にきれいな意味を足せる余白があるから。でも、言われた言葉や、自分で言った言葉は、ごまかしがきかない。その代わり、ちゃんと残る。
机の上には、返しそびれた石がまだ置いてある。黒く見える表面の奥に、茶色の筋があるように、自分の気持ちにも今の色があるのかもしれない。昔好きだった、で止めておけない色だ。
麻美はペン先でメモ帳に一行だけ書いた。
言われなかったことより、言うことの方へ進む。
書いた文字は、思ったよりまっすぐだった。
【終】
七月に入ると、編集部の冷房は効きすぎたり足りなかったりを一日の中で繰り返した。午前中は寒いのに、夕方には紙と人の熱でむしっとする。誰かが温度を上げれば、別の誰かが黙って一度下げる。そんな小さな攻防がある日ほど、締切は近い。
麻美は連載第四回の原稿を前に、珍しく手が止まっていた。取材対象の夫婦は、派手な告白も波乱もない二人だった。朝の味噌汁の濃さで機嫌が分かるとか、帰宅時間に合わせて玄関灯をつけておくとか、そういう積み重ねを丁寧に書けばいい。頭では分かっている。けれど、いざ自分の言葉へ落とそうとすると、妙なところで筆が重くなる。
見えているものを書けばいいはずなのに、自分のことだけ見えていない気がした。
昼過ぎ、妙依が赤ペンを片手に麻美の机へ来た。相変わらず無駄のない歩き方だ。原稿を一枚持ち上げ、黙って読み、すぐに余白へ赤を入れていく。
「ここ」
と、二段落目を指す。
「取材相手の恋は丁寧なのに、自分のことになると雑ですね」
麻美は顔を上げた。
「え」
「この言い回し、急に安全な場所へ逃げてます」
「安全な場所」
「一般論に引っ込んでる」
言われてみればそうだった。夫婦のやり取りのあとに続くまとめの一文が、急に教科書みたいになっている。麻美は紙を引き寄せた。『長く続く関係には日々の積み重ねが大切である』。確かに、誰が書いても同じだ。
「痛い方を削ると、急に人の話じゃなくなります」
妙依は淡々と言う。
「編集してる時って、たぶん自分がいちばんばれる」
まっすぐすぎて、反論の余地がない。麻美は椅子へ背を預けたまま、小さく息を吐いた。
「妙依って、時々すごく痛いこと言うよね」
「時々じゃないです。わりといつもです」
その通りすぎて笑うしかない。すると、ちょうどそこへ晃聡が差し入れの紙袋をぶら下げて現れた。文明の焼き菓子と、冷やしたコーヒーゼリー。編集部に来るたび、晃聡は誰かしらの手を止めていく。
「差し入れ。働く人間は甘いもん食え」
「ありがとうございます」
麻美が受け取る横で、晃聡は妙依の机にも袋を置いた。
「ほら、おまえの分」
「ありがとうございます」
「それだけ?」
「はい」
「もっとこう、ちょっと笑うとか」
「業務外です」
編集部の何人かがくすっとする。晃聡はわざとらしく肩を落とし、
「毎回塩対応の更新記録伸ばしてくるなあ」
と言った。
「店主としては固定客を大事にしたいんだけど」
「来なくて大丈夫です」
「それは傷つく」
そのやり取りのおかげで、机の上の重い空気が一度ほどけた。
晃聡が去ったあと、妙依はコーヒーゼリーの蓋を開けもせず、麻美の原稿に視線を戻した。
「言いそびれた言葉って、だいたい美化されます」
麻美は思わず手を止める。
「言われなかったことの方が、勝手に都合よくなる。ちゃんと言われた言葉の方が、案外、残るんですよ」
その言葉が、昨夜印刷所で聞いてしまった明の声と、妙に重なった。好きだった。過去形のままでも、ちゃんと残る声。けれど、今欲しいのは、たぶんそこではない。
「妙依」
「はい」
「なんでそんな、たまに恋愛相談みたいなこと言えるの」
「相談じゃないです。原稿の話です」
そっけないのに、逃がさない。
夕方、麻美は赤の入った原稿を全部見直し、書き直し始めた。一般論で逃げた一文を削り、代わりに、取材先の妻が味噌汁の鍋に蓋を戻す時の手つきと、夫が黙って椅子を引く速さを書き足した。言葉を足すたび、自分が見ていたものの輪郭が戻ってくる。
明が外回りから帰ってきたのは、その途中だった。
「進んでる?」
「やり直し中」
「どこ」
麻美が原稿を見せると、明は赤の多さに少しだけ眉を上げた。
「結構、切られたね」
「安全なとこへ逃げてたらしい」
明は紙の余白を見ながら、小さく笑った。
「妙依さん、そこ厳しいよな」
「うん。でも正しい」
正しい。そう言い切ると、胸の中で何かが少し整った。
夜、原稿を上げたあと、麻美は一人で残った編集部の窓を少し開けた。外から入ってくる風はまだぬるい。けれど、昼間よりは息がしやすい。
言われなかったことに囚われるのは、楽だ。そこには、自分で勝手にきれいな意味を足せる余白があるから。でも、言われた言葉や、自分で言った言葉は、ごまかしがきかない。その代わり、ちゃんと残る。
机の上には、返しそびれた石がまだ置いてある。黒く見える表面の奥に、茶色の筋があるように、自分の気持ちにも今の色があるのかもしれない。昔好きだった、で止めておけない色だ。
麻美はペン先でメモ帳に一行だけ書いた。
言われなかったことより、言うことの方へ進む。
書いた文字は、思ったよりまっすぐだった。
【終】