初恋はまだ終わらない、隣の席で
第20話 晃聡の笑顔の裏
七月の半ば、文明の店先には小さな風鈴が吊るされた。晃聡がどこかからもらってきたものらしい。涼しげな音がするわりに、店内はコーヒーの熱と夏の湿気でほどよく温かい。扉を開けるたび、その温度差で、外から来た人の顔が少しだけゆるむ。
この日の取材は、晃聡自身だった。連載の中盤へ差しかかり、編集長が「場所を守る人の話も欲しい」と言い出したのだ。喫茶店文明は、特集の最初からずっと二人を受け止めてきた場所でもある。
「俺? 別に恋の話ないけど」
晃聡はカウンターの中で豆を挽きながら言った。
「ないわけないでしょ」
麻美が返す。
「店と恋の話ってこと。人だけじゃなくて」
「なんだよ、その逃げ道塞ぐ感じ」
結局、取材は開店前の一時間で行うことになった。客のいない文明は、普段より椅子の脚の音が響く。窓際のピアノには白いカバーがかかり、その上に今日の新聞が畳んで置かれている。祖母の代から使われているという柱時計が、二つ先の時刻をゆっくり刻んでいた。
晃聡は最初、いつもの調子で話を濁した。祖母のレシピは分量が適当すぎて苦労したとか、常連が増えると食器が減るとか、商店街の相談窓口みたいになってるとか。笑える話ばかり選んで並べるのが、この人の防御だと麻美は知っている。
「じゃあさ」
麻美はノートを閉じた。
「店、手放したいと思ったことある?」
質問が落ちた瞬間、ミルで砕ける豆の音だけが店内に残った。明もカメラを下ろし、晃聡の横顔を見る。
「……あるよ」
出てきた声は、思っていたより静かだった。晃聡はミルのスイッチを切り、粉の入った引き出しをゆっくり抜いた。
「売上だけ見たら、ずっと楽じゃない。祖母ちゃんが元気だった頃みたいに、朝から晩まで客が途切れない日ばっかじゃねえし。うちのコーヒーだけじゃ、家賃も人件費も、全部きれいに回るわけじゃない」
苦笑いの代わりに、布巾でカウンターを拭く手が少しだけ速くなる。
「正直、去年の冬は、本気で考えた。譲るか、閉めるか」
麻美は息を詰めた。晃聡が明るさを切らさない人だと知っていたからこそ、その裏にある現実の重さが鈍く響く。
「でもなあ」
晃聡は窓際の席を見た。
「朝、最初の客が来て、いつもの席に座って、『暑いねえ』とか『今日は魚高かった』とか、そういうこと言うだろ。夕方には高校生がアイスコーヒー一杯で粘って、夜は仕事帰りの人が黙って座る。そういうの見てると、ここ、ただの店じゃねえんだよな」
明がその言葉のあとで、一枚だけシャッターを切った。晃聡の顔ではなく、カウンターの木目に乗った指先と、その向こうの窓の光。なくしたくない場所を撮る時の目だと、麻美には分かった。
「祖母ちゃん、よく言ってたんだよ」
晃聡は続ける。
「店ってのは、人が休むための椅子を置いとく場所だって。飲み物は口実でいい、って」
笑うでもなくそう言った時、店の隅に置かれた柱時計が、ひとつ大きく鳴った。
取材の途中、明はカップを洗う晃聡の手元や、ピアノカバーを整える瞬間を撮った。人物の顔を正面から押さえるのではなく、その人がその場所でどう立っているかを拾っていく。麻美はノートを取りながら、その撮り方が好きだと思った。
開店時間が近づき、いつもの常連たちがぽつぽつ現れ始めた。晃聡は取材が終わった途端、すぐいつもの顔に戻る。氷の音を鳴らし、やや濃いめのアイスコーヒーを注ぎ、客の話へ相槌を打つ。さっきまで自分の店を手放すか悩んでいた人とは思えない切り替えだ。
昼過ぎ、取材を終えて文明を出たあと、麻美と明は商店街のアーケードをゆっくり歩いた。上から吊るされた色あせた旗が、風もないのに少しだけ揺れている。
「店のこと、あんなふうに考えてると思わなかった」
麻美が言う。
「俺は、ちょっと分かる」
「分かる?」
「人じゃなくて、そこにあった時間ごと好きになる感じ」
麻美は足を止めかけた。明の声は静かだったけれど、その言葉の選び方に、逃げる気配がなかった。
「共有した時間ごと、ってこと?」
「そう」
「……それ、恋みたいだね」
明はすぐに返さなかった。少しだけ遅れて、
「たぶん、そうだと思う」
と言う。
顔が熱くなる。冗談に逃げようと思えば逃げられた。なのに二人とも、しなかった。
その日の夕方、編集部へ戻った麻美は、取材メモの一行目にこう書いた。
人を好きになるのは、その人の言葉だけじゃない。そこにいた時間まで、好きになることだ。
書いた瞬間、文明の薄暗い店内、磨かれたカウンター、白いピアノカバー、晃聡の笑っていない横顔が、一緒に胸へ入ってきた。
恋とは、人ではなく共有した時間ごと好きになること。
その言葉を、麻美はしばらく机の上に置いたまま眺めた。
【終】
七月の半ば、文明の店先には小さな風鈴が吊るされた。晃聡がどこかからもらってきたものらしい。涼しげな音がするわりに、店内はコーヒーの熱と夏の湿気でほどよく温かい。扉を開けるたび、その温度差で、外から来た人の顔が少しだけゆるむ。
この日の取材は、晃聡自身だった。連載の中盤へ差しかかり、編集長が「場所を守る人の話も欲しい」と言い出したのだ。喫茶店文明は、特集の最初からずっと二人を受け止めてきた場所でもある。
「俺? 別に恋の話ないけど」
晃聡はカウンターの中で豆を挽きながら言った。
「ないわけないでしょ」
麻美が返す。
「店と恋の話ってこと。人だけじゃなくて」
「なんだよ、その逃げ道塞ぐ感じ」
結局、取材は開店前の一時間で行うことになった。客のいない文明は、普段より椅子の脚の音が響く。窓際のピアノには白いカバーがかかり、その上に今日の新聞が畳んで置かれている。祖母の代から使われているという柱時計が、二つ先の時刻をゆっくり刻んでいた。
晃聡は最初、いつもの調子で話を濁した。祖母のレシピは分量が適当すぎて苦労したとか、常連が増えると食器が減るとか、商店街の相談窓口みたいになってるとか。笑える話ばかり選んで並べるのが、この人の防御だと麻美は知っている。
「じゃあさ」
麻美はノートを閉じた。
「店、手放したいと思ったことある?」
質問が落ちた瞬間、ミルで砕ける豆の音だけが店内に残った。明もカメラを下ろし、晃聡の横顔を見る。
「……あるよ」
出てきた声は、思っていたより静かだった。晃聡はミルのスイッチを切り、粉の入った引き出しをゆっくり抜いた。
「売上だけ見たら、ずっと楽じゃない。祖母ちゃんが元気だった頃みたいに、朝から晩まで客が途切れない日ばっかじゃねえし。うちのコーヒーだけじゃ、家賃も人件費も、全部きれいに回るわけじゃない」
苦笑いの代わりに、布巾でカウンターを拭く手が少しだけ速くなる。
「正直、去年の冬は、本気で考えた。譲るか、閉めるか」
麻美は息を詰めた。晃聡が明るさを切らさない人だと知っていたからこそ、その裏にある現実の重さが鈍く響く。
「でもなあ」
晃聡は窓際の席を見た。
「朝、最初の客が来て、いつもの席に座って、『暑いねえ』とか『今日は魚高かった』とか、そういうこと言うだろ。夕方には高校生がアイスコーヒー一杯で粘って、夜は仕事帰りの人が黙って座る。そういうの見てると、ここ、ただの店じゃねえんだよな」
明がその言葉のあとで、一枚だけシャッターを切った。晃聡の顔ではなく、カウンターの木目に乗った指先と、その向こうの窓の光。なくしたくない場所を撮る時の目だと、麻美には分かった。
「祖母ちゃん、よく言ってたんだよ」
晃聡は続ける。
「店ってのは、人が休むための椅子を置いとく場所だって。飲み物は口実でいい、って」
笑うでもなくそう言った時、店の隅に置かれた柱時計が、ひとつ大きく鳴った。
取材の途中、明はカップを洗う晃聡の手元や、ピアノカバーを整える瞬間を撮った。人物の顔を正面から押さえるのではなく、その人がその場所でどう立っているかを拾っていく。麻美はノートを取りながら、その撮り方が好きだと思った。
開店時間が近づき、いつもの常連たちがぽつぽつ現れ始めた。晃聡は取材が終わった途端、すぐいつもの顔に戻る。氷の音を鳴らし、やや濃いめのアイスコーヒーを注ぎ、客の話へ相槌を打つ。さっきまで自分の店を手放すか悩んでいた人とは思えない切り替えだ。
昼過ぎ、取材を終えて文明を出たあと、麻美と明は商店街のアーケードをゆっくり歩いた。上から吊るされた色あせた旗が、風もないのに少しだけ揺れている。
「店のこと、あんなふうに考えてると思わなかった」
麻美が言う。
「俺は、ちょっと分かる」
「分かる?」
「人じゃなくて、そこにあった時間ごと好きになる感じ」
麻美は足を止めかけた。明の声は静かだったけれど、その言葉の選び方に、逃げる気配がなかった。
「共有した時間ごと、ってこと?」
「そう」
「……それ、恋みたいだね」
明はすぐに返さなかった。少しだけ遅れて、
「たぶん、そうだと思う」
と言う。
顔が熱くなる。冗談に逃げようと思えば逃げられた。なのに二人とも、しなかった。
その日の夕方、編集部へ戻った麻美は、取材メモの一行目にこう書いた。
人を好きになるのは、その人の言葉だけじゃない。そこにいた時間まで、好きになることだ。
書いた瞬間、文明の薄暗い店内、磨かれたカウンター、白いピアノカバー、晃聡の笑っていない横顔が、一緒に胸へ入ってきた。
恋とは、人ではなく共有した時間ごと好きになること。
その言葉を、麻美はしばらく机の上に置いたまま眺めた。
【終】