初恋はまだ終わらない、隣の席で
第3話 末っ子のお姫様
日曜日の昼、麻美は実家の玄関を開けた瞬間に後悔した。醤油と砂糖の甘い匂いが廊下まで流れてきて、台所からは鍋の蓋が揺れる音がする。こういう日はたいてい、母の機嫌がよくて、兄か姉のどちらかが帰ってきていて、そして必ず誰かが麻美を子ども扱いする。
「麻美ー、そこ突っ立ってないで手ぇ洗って」
台所から母の声が飛ぶ。返事をしながら洗面所へ向かうと、居間では兄の隆也がすでに座布団の上に胡坐をかいていた。テレビの音量は小さく、湯飲みだけが妙に大きく見える。
「お、姫のおなり」
「やめて」
「相変わらず嫌がるなあ。かわいい呼び方なのに」
「三十手前の女に向かって言う呼び方じゃないでしょ」
兄は笑って受け流した。隣では姉の奈央がみかんを剥いている。麻美を見るなり、ひと房だけ無言で差し出してきた。この人はこういうところがある。茶化す時は茶化すのに、ちょっと本気で嫌そうにすると、食べ物で黙らせようとする。
「仕事どうなの」
奈央が聞く。
「新しい連載始まる」
「へえ。どんな」
「商店街の特集。人の話を聞くやつ」
「麻美向いてるじゃん」
「聞くのはね」
「書くのも向いてるよ」
「そういうんじゃなくて、恋愛の話」
「なおさらじゃん」
「なんで」
奈央は答えの代わりに肩をすくめた。兄はその横から、いかにも面白そうな顔で割って入る。
「恋愛ねえ。麻美、そういうの昔から拗らせやすかったもんな」
「何の話」
「隣の――」
「何の話」
かぶせて言うと、兄は声を立てて笑った。母が煮物の皿を持ってきながら「また始まった」と呆れた顔をする。家族に悪気がないのはわかっていた。だから余計に厄介だ。軽い冗談で済ませられる側だけが、軽いままでいられる。
卓上に料理が並び始める。筍の煮物、菜の花の辛子和え、鰆の西京焼き。母の料理はいつも少しずつ手がかかっている。麻美は箸を持ちながら、こんなふうに大切にされてきたこと自体は知っているし、感謝もしている。けれど、その大切にされ方の中に、自分がずっと「末っ子」「守られる側」「まだ半人前」として置かれてきた息苦しさもある。
「そういえば」
母が茶碗を置きながら言った。
「向かいのおばさん、この前会ったら懐かしがってたわよ。明くん、帰ってきてるんですって?」
箸先が止まった。
「へえ」
兄がすぐ食いつく。
「やっぱそうなんだ。駅前で見たって風介が言ってた」
「……仕事で会った」
麻美は煮物を見たまま言った。
「え、会ったの?」
「うん」
「何その反応。もっとこう、うわあ再会だあ、みたいなのないの」
「あるわけないでしょ」
「あるでしょ」
「ない」
「図星の時の言い方」
兄も姉も笑っている。母だけが一瞬だけ麻美の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。たぶん、わかっているのだ。家族は全部知らない。けれど全部知らなくても、胸のどこかに引っかかっていたものが、今も残っていることくらいは。
食後、皿洗いを申し出ると、母は「いいから座ってなさい」と言った。麻美は反射で「やる」と返した。少し強い声になってしまい、台所の空気がわずかに止まる。
「麻美」
母がやさしく呼ぶ。
「そんな怒らなくても、いいよ」
「怒ってない」
「怒ってる顔」
「……怒ってない。やるだけ」
スポンジを持つ手に、少しだけ力が入った。皿に泡をのせて、縁を一枚ずつ洗っていく。奈央が横からタオルを持って並び、無言で拭く役にまわった。
「お姫様、やめてほしいんでしょ」
奈央がぽつりと言った。
「……うん」
「なんで早く言わないの」
「言っても、冗談で流れるし」
「今日は流してないよ」
「今日はね」
奈央は皿を拭く手を止めずに、「じゃあ今日から変えるように言っとく」とだけ言った。その言い方が淡々としているぶん、少しだけ救われる。
台所を出るころ、兄が廊下から顔をのぞかせた。
「悪かったよ」
「急にどうしたの」
「姫って呼ぶの」
「……うん」
「でもな、子ども扱いしたいんじゃなくて、うちでは末っ子のままだからってだけだぞ」
「それが嫌なんだって」
「知ってる。だから悪かったって」
軽い調子なのに、ちゃんと謝っている顔だった。麻美はそこでようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
夕方、帰り際に玄関で靴を履いていると、門の外の通りが視界に入った。昔から植えてある鉢植えのローズマリーが、春風にわずかに揺れている。その向こう、道の向かい側で、男が一瞬だけ立ち止まった。
明だった。
黒い上着のポケットに手を入れたまま、こちらを見るでもなく、実家の門柱の脇に置かれた青い鉢を見ていた。高校のころ、母が割ってしまった鉢の代わりに、兄と明がホームセンターで選んできたものだ。そんなことまで、麻美は嫌になるほど覚えている。
声をかけるか迷った、その一拍のあいだに、明は歩き出した。振り返らない。こちらが見ていたことにも気づいていないのかもしれない。
門の前に立ったまま、麻美はしばらく動けなかった。
帰宅して、机に向かった。取材ノートを開く。新しいページはまだ白い。麻美はシャープペンを握り、少し迷ってから、一行だけ書いた。
私は聞く側で終わらない。
字は思ったより強く紙へ食い込んだ。恋の取材をする前に、まず自分がどこに立ちたいのか、忘れないようにしたかった。誰かに守られる役のまま、人の人生に踏み込む文章は書きたくない。
ページを閉じると、窓の外で電車の音がした。遠くて、いつもの音のはずなのに、今日は妙に胸へ響いた。
【終】
日曜日の昼、麻美は実家の玄関を開けた瞬間に後悔した。醤油と砂糖の甘い匂いが廊下まで流れてきて、台所からは鍋の蓋が揺れる音がする。こういう日はたいてい、母の機嫌がよくて、兄か姉のどちらかが帰ってきていて、そして必ず誰かが麻美を子ども扱いする。
「麻美ー、そこ突っ立ってないで手ぇ洗って」
台所から母の声が飛ぶ。返事をしながら洗面所へ向かうと、居間では兄の隆也がすでに座布団の上に胡坐をかいていた。テレビの音量は小さく、湯飲みだけが妙に大きく見える。
「お、姫のおなり」
「やめて」
「相変わらず嫌がるなあ。かわいい呼び方なのに」
「三十手前の女に向かって言う呼び方じゃないでしょ」
兄は笑って受け流した。隣では姉の奈央がみかんを剥いている。麻美を見るなり、ひと房だけ無言で差し出してきた。この人はこういうところがある。茶化す時は茶化すのに、ちょっと本気で嫌そうにすると、食べ物で黙らせようとする。
「仕事どうなの」
奈央が聞く。
「新しい連載始まる」
「へえ。どんな」
「商店街の特集。人の話を聞くやつ」
「麻美向いてるじゃん」
「聞くのはね」
「書くのも向いてるよ」
「そういうんじゃなくて、恋愛の話」
「なおさらじゃん」
「なんで」
奈央は答えの代わりに肩をすくめた。兄はその横から、いかにも面白そうな顔で割って入る。
「恋愛ねえ。麻美、そういうの昔から拗らせやすかったもんな」
「何の話」
「隣の――」
「何の話」
かぶせて言うと、兄は声を立てて笑った。母が煮物の皿を持ってきながら「また始まった」と呆れた顔をする。家族に悪気がないのはわかっていた。だから余計に厄介だ。軽い冗談で済ませられる側だけが、軽いままでいられる。
卓上に料理が並び始める。筍の煮物、菜の花の辛子和え、鰆の西京焼き。母の料理はいつも少しずつ手がかかっている。麻美は箸を持ちながら、こんなふうに大切にされてきたこと自体は知っているし、感謝もしている。けれど、その大切にされ方の中に、自分がずっと「末っ子」「守られる側」「まだ半人前」として置かれてきた息苦しさもある。
「そういえば」
母が茶碗を置きながら言った。
「向かいのおばさん、この前会ったら懐かしがってたわよ。明くん、帰ってきてるんですって?」
箸先が止まった。
「へえ」
兄がすぐ食いつく。
「やっぱそうなんだ。駅前で見たって風介が言ってた」
「……仕事で会った」
麻美は煮物を見たまま言った。
「え、会ったの?」
「うん」
「何その反応。もっとこう、うわあ再会だあ、みたいなのないの」
「あるわけないでしょ」
「あるでしょ」
「ない」
「図星の時の言い方」
兄も姉も笑っている。母だけが一瞬だけ麻美の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。たぶん、わかっているのだ。家族は全部知らない。けれど全部知らなくても、胸のどこかに引っかかっていたものが、今も残っていることくらいは。
食後、皿洗いを申し出ると、母は「いいから座ってなさい」と言った。麻美は反射で「やる」と返した。少し強い声になってしまい、台所の空気がわずかに止まる。
「麻美」
母がやさしく呼ぶ。
「そんな怒らなくても、いいよ」
「怒ってない」
「怒ってる顔」
「……怒ってない。やるだけ」
スポンジを持つ手に、少しだけ力が入った。皿に泡をのせて、縁を一枚ずつ洗っていく。奈央が横からタオルを持って並び、無言で拭く役にまわった。
「お姫様、やめてほしいんでしょ」
奈央がぽつりと言った。
「……うん」
「なんで早く言わないの」
「言っても、冗談で流れるし」
「今日は流してないよ」
「今日はね」
奈央は皿を拭く手を止めずに、「じゃあ今日から変えるように言っとく」とだけ言った。その言い方が淡々としているぶん、少しだけ救われる。
台所を出るころ、兄が廊下から顔をのぞかせた。
「悪かったよ」
「急にどうしたの」
「姫って呼ぶの」
「……うん」
「でもな、子ども扱いしたいんじゃなくて、うちでは末っ子のままだからってだけだぞ」
「それが嫌なんだって」
「知ってる。だから悪かったって」
軽い調子なのに、ちゃんと謝っている顔だった。麻美はそこでようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
夕方、帰り際に玄関で靴を履いていると、門の外の通りが視界に入った。昔から植えてある鉢植えのローズマリーが、春風にわずかに揺れている。その向こう、道の向かい側で、男が一瞬だけ立ち止まった。
明だった。
黒い上着のポケットに手を入れたまま、こちらを見るでもなく、実家の門柱の脇に置かれた青い鉢を見ていた。高校のころ、母が割ってしまった鉢の代わりに、兄と明がホームセンターで選んできたものだ。そんなことまで、麻美は嫌になるほど覚えている。
声をかけるか迷った、その一拍のあいだに、明は歩き出した。振り返らない。こちらが見ていたことにも気づいていないのかもしれない。
門の前に立ったまま、麻美はしばらく動けなかった。
帰宅して、机に向かった。取材ノートを開く。新しいページはまだ白い。麻美はシャープペンを握り、少し迷ってから、一行だけ書いた。
私は聞く側で終わらない。
字は思ったより強く紙へ食い込んだ。恋の取材をする前に、まず自分がどこに立ちたいのか、忘れないようにしたかった。誰かに守られる役のまま、人の人生に踏み込む文章は書きたくない。
ページを閉じると、窓の外で電車の音がした。遠くて、いつもの音のはずなのに、今日は妙に胸へ響いた。
【終】