初恋はまだ終わらない、隣の席で
第21話 こぼれた本音

 七月の終わり、掲載号の搬入を兼ねた小さな打ち上げが文明で開かれた。打ち上げといっても、編集部と商店街の関係者が閉店後の店へ集まり、冷たい飲み物と軽食をつまみながら「おつかれさま」を言い合うだけの、ささやかな会だった。派手な乾杯もなく、笑い声は大きすぎない。けれど、誌面が町へ出ていくと、その号ごとにこうして誰かの顔が見えるのは、麻美はけっこう好きだった。

 晃聡はカウンターの中を忙しく動き回りながらも、客のグラスが空になる前に次を置く。瑞葉は会費の封筒をきっちり回収し、妙依は誰にも言われていないのにテーブルの紙皿を重ね直している。滉矢は役場の人間らしい穏やかさで、商店街の年配者の話を最後まで聞き、彩奏は子ども向けの演奏会案の相談をいつのまにか受けていた。

 明はというと、最初はカメラを持っていたのに、途中からすっかり脇へ置き、珍しく写真を撮らずに話の輪へ入っていた。誰かが笑う前の顔を見つめる癖はそのままなのに、シャッターを挟まないぶん、表情が近い。

 麻美はその様子を見ながら、文明のレモンケーキを小さく切り分けていた。切り口へナイフを入れるたび、薄い酸味の香りが立つ。誰かの皿へひとつずつ配っていく作業は、妙に気持ちが落ち着いた。

「麻美」
 
 名前を呼ばれ、振り向くと明がいた。手には氷の少し溶けたジンジャーエールが二つ。
「はい」
「これ、ひとつ余った」
「余ったんじゃなくて、持ってきたでしょ」
「ばれた」
 
 それだけで、少し笑える。グラスを受け取り、二人は店のいちばん奥、ピアノのそばへ移った。カバーのかかった鍵盤は今日も静かだったが、近くへ行くと、木がわずかに夏の湿気を吸っている匂いがした。

 奥の席からは、晃聡が妙依にまた何か言って軽くあしらわれる声や、瑞葉が「紙皿はこの袋で分けて」と指示する声が聞こえる。賑やかなのに、ここだけ少しだけ離れていた。

「今回の号、よかった」
 明が言う。
「読者の投稿の扱い方」
「写真もよかったよ」
「ありがとう」
 
 いつもならそこで会話は仕事の話へ流れていく。けれど今夜は、明の声がそこで途切れなかった。
「……東京から、また連絡来てる」
 
 胸の奥が一度だけ冷たくなる。それでも麻美は、すぐには顔へ出さないように、グラスの中の氷を見た。
「そっか」
「まだ返事してない」
「うん」
 
 返事を待っているのは東京の方だけではない気がした。けれど、その先の言葉が続かない。周囲の笑い声が一度大きくなり、また遠のいた。

 気まずさを破ったのは、晃聡だった。
「おーい、二人とも。そんな端っこで深刻そうな顔すんな、別れ話みたいに見える」
 
 店内がどっと笑う。麻美は思わず、
「違うから」
と返したが、その返しが妙に早すぎて、さらに何人かが笑った。晃聡はそこで満足した顔をして、客の残り物を片付けに戻る。

 打ち上げが終わったのは、十一時を回ってからだった。店を出ると、昼間の熱がようやく下がり始めていて、夜風がアーケードの端から細く通り抜けていた。

「駅まで送る」
 明が言う。
「うん」
 
 二人は店の裏手から続く細い道を歩いた。普段なら遠回りしないのに、今夜はどちらからともなく川沿いの道へ入る。水面は街灯を細く映し、草むらでは虫の声が絶えず続いている。夏の夜の湿り気はあるのに、歩いていると少しだけ楽だ。

「東京の話」
 麻美は自分から切り出した。
「大きい仕事なんでしょ」
「うん」
「行きたい?」
 
 明はすぐには答えなかった。橋の欄干の影が顔を半分だけ隠す。
「写真家としては、行った方がいい話だと思う」
「そうなんだ」
「でも」
 
 その先を待つ時間が長く感じる。風が吹く。川の匂いが上がる。

「決めきれない」
 
 麻美はそこで笑えなかった。分かっていたはずなのに、曖昧な答えはやっぱり苦しい。行くと言われても痛いし、決めきれないと言われても落ち着かない。

 少し黙ってから、麻美の口が勝手に動いた。
「またいなくなられたら、困る」
 
 言ってから、自分でも息が止まりそうになった。好きだ、ではない。行かないで、でもない。もっと生活に近い、逃げ場のない言葉だった。

 明は足を止めた。川沿いの手すりに片手を置いたまま、何かを言いかけて、言えないまま飲み込む。
「……麻美」
「ごめん」
 麻美はすぐに続けた。
「困るって言い方、ずるいよね」
「ずるくない」
 
 そう答えた明の声は、ひどく低かった。けれど、その先が続かない。困ると言われて、嬉しそうでも、迷惑そうでもなかった。ただ、本気で受け止めた顔をしていた。

 沈黙が落ちる。街灯の下で、二人の影が川沿いの道へ細く伸びた。

「今日は、それしか言えない」
 麻美は言う。
「うん」
「明も、無理に今答えなくていい」
「……うん」
 
 優しさのつもりで言ったのに、自分の喉に棘が残る。今すぐ答えてほしいわけじゃない。でも、いずれ答えは必要だ。そのことを二人とも分かっている。

 駅前で別れる時、明は珍しく「また明日」を言わなかった。麻美も言えなかった。代わりに、短く手を上げて別れた。

 家へ帰ると、部屋の静けさが急に広く感じた。冷蔵庫の音だけがやけに耳につく。鞄を椅子へ置き、洗面所で顔を洗い、鏡を見る。頬が少し熱い。困る。そんな言葉が、こんなに真ん中を出してしまうとは思わなかった。

 翌朝、編集部で妙依が原稿の山を抱えたまま麻美を見た。
「顔、寝不足ですね」
「そう?」
「でも昨日より少しだけましです」
「昨日より?」
「主語が自分でしたから」
 
 麻美はきょとんとした。妙依はそれ以上説明しない。
「『行かないでほしい』じゃなくて、『困る』だった」
 
 どこまで見ているのだろう、この人は。思わず苦笑すると、妙依はようやく一瞬だけ口元をゆるめた。
「やっと、自分の話になりましたね」
 
 その一言が、恥ずかしいのに少しだけ救いだった。
【終】

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