初恋はまだ終わらない、隣の席で
第22話 すぐそばにあるもの
八月に入ると、町の光の色が少し変わった。日差しそのものが強いのではなく、建物の壁や道路から跳ね返ってくる白さが増す。商店街のアーケードの下でさえ、昼過ぎには熱がこもり、買い物袋を持った人たちの歩く速さが目に見えて落ちる。
そんな暑さのなかで始まったのが、追加企画『あなたの身近な恋の風景』だった。写真でも短文でもいい。暮らしの中で見つけた、誰かと誰かのやわらかい関係を送ってもらう。役場の広報欄にも載り、商店街の掲示板にも貼られ、文明のレジ横には応募箱まで置かれた。
最初はどれだけ集まるか読めなかった。けれど、締切の一週間前になる頃には、編集部の机の上へ封筒とメールのプリントが積み上がり始めた。麻美はそれを見た時、静かに震えるものを感じた。誰かが「うちにもあります」と差し出してくれた景色だ。
昼過ぎ、会議机へ投稿が並べられる。写真、絵葉書の裏に書かれた短文、便箋三枚にわたるエピソード。明は写真を、麻美は文章を中心に見ながら、時々逆の山へ手を伸ばした。
「これ、見て」
麻美が一枚を差し出す。
写っていたのは玄関先の写真だった。大人用の長靴が二足、子どもの小さいサンダルが一足。その横へ、雨に濡れた傘が三本、きれいに並べて立てかけてある。題名は『迎えに行く人がいる玄関』。
「いいな」
明が言う。
「撮った人、うまい」
「言葉も少なくていいよね」
別の投稿には、湯気の立つ味噌汁と、隣に置かれた二つの茶碗の写真。『食卓に座るまでが、最近ちょっと楽しみ』という一行だけが添えられていた。
大きなプロポーズも、劇的な再会もない。ただ、同じ方向を向いた自転車、窓際に干された二人分のエプロン、買い物メモの字が途中から別の筆跡になっているレシートの裏。麻美は読みながら、胸の中のどこかが静かにほどけていくのを感じた。
「恋って、案外こういうのなんだね」
思わず口に出すと、
「うん」
と明が答えた。
「遠くで起きるでかいことじゃなくて、毎日見てるのに名前つけてなかったもの」
その言い方に、麻美は顔を上げる。明は窓際の光の中で、投稿写真を指先で整えていた。前なら、こういう感想をそのまま口にする人ではなかった。自分の内側を説明しすぎない距離の取り方が、少しずつ薄くなっている。
午後、滉矢が役場との連携用資料を持って来た。汗をかいたシャツの袖口が少しだけ濃くなっている。
「反応、思ったよりあります」
「役場にも?」
麻美が聞く。
「問い合わせが何件か。展示みたいにできないですかって」
その一言で、編集部の空気が少し変わった。展示。投稿を紙面だけでなく、どこかで見せる形。まだ案の段階なのに、机の上の紙束が急に次の景色へつながる。
滉矢は続ける。
「大がかりじゃなくていいなら、商店街の空きスペースとか、町民ホールのロビーとか」
「町民ホール」
麻美が繰り返すと、
「夜の小さい使用枠なら、探せるかもしれません」
と答える。
その会話の途中、彩奏からメッセージが入った。『ピアノ、来月なら一度ホールへ戻せそう。もし使うなら早めに言って』。偶然にしてはできすぎていて、麻美は思わず明と顔を見合わせた。
夕方、投稿の選定作業が一段落したところで、麻美は冷房の効きすぎた編集室を出て、非常階段へ出た。外気はむわっと重いのに、紙の匂いから離れると頭が少しだけ静かになる。
明が遅れて出てきて、隣の段へ腰を下ろす。非常階段の鉄は熱を持っているが、座れないほどではない。
「今日の投稿、よかったね」
麻美が言う。
「うん」
「なんか、テーマの意味、やっと体に入った感じ」
恋はもっと、すぐそばに。コンテストの言葉としては知っていた。でも今は、机の上へ届いた何十枚もの暮らしの断片として、その意味が分かる。遠くへ行かなくても、ドラマみたいに叫ばなくても、ちゃんと恋はある。
「俺、ずっと遠くの一枚ばっか追ってたかもしれない」
明がぽつりと言う。
「報道の仕事してると、強い画が正義みたいになるから」
「強い画」
「誰が見ても一発で伝わるやつ。でも、今日の写真って、強いっていうより、置いてある感じだったろ」
置いてある。麻美はその言葉が好きだと思った。誰かの生活の中に、そっとあるもの。
「でも、今の明の写真、そういうの撮れる」
麻美は言う。
「前より、ずっと」
明は黙ったまま、非常階段の手すりの向こうを見た。商店街の屋根が夕方の色を受けて、鈍く光っている。
「麻美が、そういうのを書くからだよ」
「え」
「言葉で先に見せてもらってる感じがする」
胸が静かに打つ。褒められているのに、ただ嬉しいだけでは済まない。自分の仕事が相手の表現へ届いていること、それが尊敬と一緒に返ってくること。その重みを、今の麻美はもう知らないふりができない。
夜までかけて選定を終えたあと、机の上には使いたい投稿がずらりと並んだ。どれを載せても、この町の誰かの暮らしが立ち上がる。
麻美は最後に一枚、短い文章だけの投稿を読んだ。
『夫は言葉が少ないです。でも、エアコンが効きすぎると、私の席の下へ黙ってひざ掛けを置きます。たぶん、あれも恋です。』
声に出して読むと、瑞葉が吹き出した。
「それ、分かる」
「瑞葉にもそういうのあるの」
「あるよ、さすがに」
編集部の空気がやわらぐ。誰かの身近な恋の話は、聞く側の胸の中にも同じような引き出しを開けるのだ。
その夜、麻美はノートに新しい見出し案を書いた。
すぐそばにあるもの。
それは誌面の小見出しのつもりだったけれど、書いた瞬間、少しだけ自分自身のことにも見えた。
【終】
八月に入ると、町の光の色が少し変わった。日差しそのものが強いのではなく、建物の壁や道路から跳ね返ってくる白さが増す。商店街のアーケードの下でさえ、昼過ぎには熱がこもり、買い物袋を持った人たちの歩く速さが目に見えて落ちる。
そんな暑さのなかで始まったのが、追加企画『あなたの身近な恋の風景』だった。写真でも短文でもいい。暮らしの中で見つけた、誰かと誰かのやわらかい関係を送ってもらう。役場の広報欄にも載り、商店街の掲示板にも貼られ、文明のレジ横には応募箱まで置かれた。
最初はどれだけ集まるか読めなかった。けれど、締切の一週間前になる頃には、編集部の机の上へ封筒とメールのプリントが積み上がり始めた。麻美はそれを見た時、静かに震えるものを感じた。誰かが「うちにもあります」と差し出してくれた景色だ。
昼過ぎ、会議机へ投稿が並べられる。写真、絵葉書の裏に書かれた短文、便箋三枚にわたるエピソード。明は写真を、麻美は文章を中心に見ながら、時々逆の山へ手を伸ばした。
「これ、見て」
麻美が一枚を差し出す。
写っていたのは玄関先の写真だった。大人用の長靴が二足、子どもの小さいサンダルが一足。その横へ、雨に濡れた傘が三本、きれいに並べて立てかけてある。題名は『迎えに行く人がいる玄関』。
「いいな」
明が言う。
「撮った人、うまい」
「言葉も少なくていいよね」
別の投稿には、湯気の立つ味噌汁と、隣に置かれた二つの茶碗の写真。『食卓に座るまでが、最近ちょっと楽しみ』という一行だけが添えられていた。
大きなプロポーズも、劇的な再会もない。ただ、同じ方向を向いた自転車、窓際に干された二人分のエプロン、買い物メモの字が途中から別の筆跡になっているレシートの裏。麻美は読みながら、胸の中のどこかが静かにほどけていくのを感じた。
「恋って、案外こういうのなんだね」
思わず口に出すと、
「うん」
と明が答えた。
「遠くで起きるでかいことじゃなくて、毎日見てるのに名前つけてなかったもの」
その言い方に、麻美は顔を上げる。明は窓際の光の中で、投稿写真を指先で整えていた。前なら、こういう感想をそのまま口にする人ではなかった。自分の内側を説明しすぎない距離の取り方が、少しずつ薄くなっている。
午後、滉矢が役場との連携用資料を持って来た。汗をかいたシャツの袖口が少しだけ濃くなっている。
「反応、思ったよりあります」
「役場にも?」
麻美が聞く。
「問い合わせが何件か。展示みたいにできないですかって」
その一言で、編集部の空気が少し変わった。展示。投稿を紙面だけでなく、どこかで見せる形。まだ案の段階なのに、机の上の紙束が急に次の景色へつながる。
滉矢は続ける。
「大がかりじゃなくていいなら、商店街の空きスペースとか、町民ホールのロビーとか」
「町民ホール」
麻美が繰り返すと、
「夜の小さい使用枠なら、探せるかもしれません」
と答える。
その会話の途中、彩奏からメッセージが入った。『ピアノ、来月なら一度ホールへ戻せそう。もし使うなら早めに言って』。偶然にしてはできすぎていて、麻美は思わず明と顔を見合わせた。
夕方、投稿の選定作業が一段落したところで、麻美は冷房の効きすぎた編集室を出て、非常階段へ出た。外気はむわっと重いのに、紙の匂いから離れると頭が少しだけ静かになる。
明が遅れて出てきて、隣の段へ腰を下ろす。非常階段の鉄は熱を持っているが、座れないほどではない。
「今日の投稿、よかったね」
麻美が言う。
「うん」
「なんか、テーマの意味、やっと体に入った感じ」
恋はもっと、すぐそばに。コンテストの言葉としては知っていた。でも今は、机の上へ届いた何十枚もの暮らしの断片として、その意味が分かる。遠くへ行かなくても、ドラマみたいに叫ばなくても、ちゃんと恋はある。
「俺、ずっと遠くの一枚ばっか追ってたかもしれない」
明がぽつりと言う。
「報道の仕事してると、強い画が正義みたいになるから」
「強い画」
「誰が見ても一発で伝わるやつ。でも、今日の写真って、強いっていうより、置いてある感じだったろ」
置いてある。麻美はその言葉が好きだと思った。誰かの生活の中に、そっとあるもの。
「でも、今の明の写真、そういうの撮れる」
麻美は言う。
「前より、ずっと」
明は黙ったまま、非常階段の手すりの向こうを見た。商店街の屋根が夕方の色を受けて、鈍く光っている。
「麻美が、そういうのを書くからだよ」
「え」
「言葉で先に見せてもらってる感じがする」
胸が静かに打つ。褒められているのに、ただ嬉しいだけでは済まない。自分の仕事が相手の表現へ届いていること、それが尊敬と一緒に返ってくること。その重みを、今の麻美はもう知らないふりができない。
夜までかけて選定を終えたあと、机の上には使いたい投稿がずらりと並んだ。どれを載せても、この町の誰かの暮らしが立ち上がる。
麻美は最後に一枚、短い文章だけの投稿を読んだ。
『夫は言葉が少ないです。でも、エアコンが効きすぎると、私の席の下へ黙ってひざ掛けを置きます。たぶん、あれも恋です。』
声に出して読むと、瑞葉が吹き出した。
「それ、分かる」
「瑞葉にもそういうのあるの」
「あるよ、さすがに」
編集部の空気がやわらぐ。誰かの身近な恋の話は、聞く側の胸の中にも同じような引き出しを開けるのだ。
その夜、麻美はノートに新しい見出し案を書いた。
すぐそばにあるもの。
それは誌面の小見出しのつもりだったけれど、書いた瞬間、少しだけ自分自身のことにも見えた。
【終】