初恋はまだ終わらない、隣の席で
第23話 取材中止の朝
八月の二週目の朝、編集部の窓を開けた瞬間に入ってきた風は、もう風と呼ぶには熱すぎた。外の空気がそのまま部屋へ流れ込み、紙の端を持ち上げるだけで、涼しさは何も連れてこない。麻美は窓を開けたことを一瞬だけ後悔し、けれどいつもの習慣を途中でやめるのも落ち着かなくて、そのまま数秒だけ外気を通した。
九時半、編集長から全員へ会議の声がかかる。予感はあった。瑞葉が朝から領収書ではなく試算表を先に広げていた時点で、いい話ではない。
会議室の空調は強すぎるくらい効いていたのに、編集長が口を開いた瞬間、誰もが別の汗を思い出した。
「特集後半の予算、正式に削られた」
短い一文のあとに、紙のめくれる音だけが残る。麻美はすぐにはメモを取れなかった。
「次の取材、一件中止。ページ数も少し縮小する」
言葉の意味は分かる。けれど、それが何を切り落とすかを、頭が受け取るのに数秒いる。中止になるのは、先週ようやく承諾をもらった、再婚同士の夫婦への聞き書きだった。派手な話ではないけれど、子連れで新しい家族になっていく二人の暮らしを、麻美はどうしても載せたかった。
「理由は?」
麻美は思わず聞いていた。
「全体の広告落ち込み。特集そのものが悪いわけじゃない」
「でも、切るのはそこなんですね」
言ってから、語尾が少し強すぎたと分かる。編集長は怒らなかった。ただ疲れた顔で、
「分かってる」
と言った。
「悔しいのは同じだ」
会議が終わったあと、机へ戻っても、しばらく手が動かなかった。中止の電話をどう入れるか。取材を楽しみにしてくれていた相手へ、何と伝えるか。誌面の都合、予算の都合。そんな言葉で片付けたくないのに、現実はだいたいその言葉で動く。
瑞葉がそっと紙を一枚差し出した。
「縮小案、三パターン作った」
いつのまに準備していたのかと思う。感情を先に出さない人ほど、先回りして支える。
風介からは昼前に電話が入った。
『印刷所側で手伝えることあったら言え』
それだけだった。説明はいらないと言うみたいな声だった。
明は午前中、ほとんど何も言わなかった。写真の候補を見直しながら、必要なものだけを麻美の机へ置いていく。けれど、沈黙がただの傍観ではないことは伝わる。何かを考えている顔だった。
昼休みを過ぎたころ、麻美は取材中止の連絡を入れた。受話器の向こうの女性は、少し驚いたあとで、
「そうですか。じゃあ、また別の機会があれば」
と静かに言ってくれた。責めない声だったからこそ、余計に胸が痛む。
電話を切ったあと、麻美は一瞬だけ机へ突っ伏したくなった。実際には背筋を伸ばしたまま、ペンを握り直しただけだが、その握り直しに力が要った。
夕方、文明へ見本誌の追加分を届けに行くと、晃聡は麻美の顔を見るなり、
「取材、飛んだんだって?」
と聞いた。
「もう知ってるの」
「この町なめんな」
知りたくないことまで回る距離だ。けれど今日は、その近さがありがたかった。
「だったら店使えよ」
晃聡は当たり前みたいに言う。
「え」
「打ち合わせでも、朗読でも、展示でも。取材飛んだ分、別の形で拾えるもんあるだろ」
麻美は一瞬、意味を取り損ねた。朗読。展示。昨日まで机の上にあった案が、急に現実の形を持ち始める。
「でも、文明だけじゃ入りきらないかも」
明が言う。
「そうだな」
晃聡は顎に手をやる。
「なら準備拠点をうちにして、本番はもうちょい広いとこ」
そこへ、ちょうど滉矢が入ってきた。役場帰りらしいシャツ姿で、汗の乾ききらない首もとをハンカチで押さえている。
「話、聞こえました」
「盗み聞きか」
晃聡が言うと、
「入り口が開いてました」
と滉矢は真顔で返した。
そして、テーブルの空いた席へ資料を広げる。
「町民ホール、夜間の小さい使用枠なら、来月ひとつ押さえられるかもしれません」
麻美と明が同時に顔を上げる。
「本当に?」
「確定ではないです。ただ、改修の都合で空きがひとつ出そうで」
彩奏にもすぐ連絡すると、返信は早かった。『もしホール使えるなら、ピアノ戻せるように調整する』。誰かが一歩動くと、別の誰かの動きも連なっていく。
文明の窓際の席に、気づけば人が集まっていた。晃聡、滉矢、明、麻美。少し遅れて瑞葉も来て、最初の三十分は会計と申請の現実的な線引きをし、風介は電話越しに「パネル立てなら手配できる」と言った。妙依は後から合流し、朗読に使う文章量の目安をすぐに計算し始める。
中止になった取材は戻らない。でも、なくなった分を別の形で生かす道が、目の前で立ち上がっていく。
文明のピアノの上には、相変わらず白いカバーがかかっていた。麻美はその端へ手を置いた。木の温度が、布越しにも少しだけ伝わる。
失うことばかりじゃない。失いかけた時に、誰かが椅子を寄せてくれることもある。
帰り際、晃聡がプリンを持たせてきた。
「おこぼれ」
「それ、最近便利に使ってるでしょ」
「うるせえ、甘いもん食え」
そのやり取りで、ようやく麻美は少しだけ笑えた。
取材中止の朝は、確かに悔しかった。けれど、同じ日の夜には、別の始まりの形がテーブルの上に並んでいた。きれいじゃなくても、始まりは始まりだ。
【終】
八月の二週目の朝、編集部の窓を開けた瞬間に入ってきた風は、もう風と呼ぶには熱すぎた。外の空気がそのまま部屋へ流れ込み、紙の端を持ち上げるだけで、涼しさは何も連れてこない。麻美は窓を開けたことを一瞬だけ後悔し、けれどいつもの習慣を途中でやめるのも落ち着かなくて、そのまま数秒だけ外気を通した。
九時半、編集長から全員へ会議の声がかかる。予感はあった。瑞葉が朝から領収書ではなく試算表を先に広げていた時点で、いい話ではない。
会議室の空調は強すぎるくらい効いていたのに、編集長が口を開いた瞬間、誰もが別の汗を思い出した。
「特集後半の予算、正式に削られた」
短い一文のあとに、紙のめくれる音だけが残る。麻美はすぐにはメモを取れなかった。
「次の取材、一件中止。ページ数も少し縮小する」
言葉の意味は分かる。けれど、それが何を切り落とすかを、頭が受け取るのに数秒いる。中止になるのは、先週ようやく承諾をもらった、再婚同士の夫婦への聞き書きだった。派手な話ではないけれど、子連れで新しい家族になっていく二人の暮らしを、麻美はどうしても載せたかった。
「理由は?」
麻美は思わず聞いていた。
「全体の広告落ち込み。特集そのものが悪いわけじゃない」
「でも、切るのはそこなんですね」
言ってから、語尾が少し強すぎたと分かる。編集長は怒らなかった。ただ疲れた顔で、
「分かってる」
と言った。
「悔しいのは同じだ」
会議が終わったあと、机へ戻っても、しばらく手が動かなかった。中止の電話をどう入れるか。取材を楽しみにしてくれていた相手へ、何と伝えるか。誌面の都合、予算の都合。そんな言葉で片付けたくないのに、現実はだいたいその言葉で動く。
瑞葉がそっと紙を一枚差し出した。
「縮小案、三パターン作った」
いつのまに準備していたのかと思う。感情を先に出さない人ほど、先回りして支える。
風介からは昼前に電話が入った。
『印刷所側で手伝えることあったら言え』
それだけだった。説明はいらないと言うみたいな声だった。
明は午前中、ほとんど何も言わなかった。写真の候補を見直しながら、必要なものだけを麻美の机へ置いていく。けれど、沈黙がただの傍観ではないことは伝わる。何かを考えている顔だった。
昼休みを過ぎたころ、麻美は取材中止の連絡を入れた。受話器の向こうの女性は、少し驚いたあとで、
「そうですか。じゃあ、また別の機会があれば」
と静かに言ってくれた。責めない声だったからこそ、余計に胸が痛む。
電話を切ったあと、麻美は一瞬だけ机へ突っ伏したくなった。実際には背筋を伸ばしたまま、ペンを握り直しただけだが、その握り直しに力が要った。
夕方、文明へ見本誌の追加分を届けに行くと、晃聡は麻美の顔を見るなり、
「取材、飛んだんだって?」
と聞いた。
「もう知ってるの」
「この町なめんな」
知りたくないことまで回る距離だ。けれど今日は、その近さがありがたかった。
「だったら店使えよ」
晃聡は当たり前みたいに言う。
「え」
「打ち合わせでも、朗読でも、展示でも。取材飛んだ分、別の形で拾えるもんあるだろ」
麻美は一瞬、意味を取り損ねた。朗読。展示。昨日まで机の上にあった案が、急に現実の形を持ち始める。
「でも、文明だけじゃ入りきらないかも」
明が言う。
「そうだな」
晃聡は顎に手をやる。
「なら準備拠点をうちにして、本番はもうちょい広いとこ」
そこへ、ちょうど滉矢が入ってきた。役場帰りらしいシャツ姿で、汗の乾ききらない首もとをハンカチで押さえている。
「話、聞こえました」
「盗み聞きか」
晃聡が言うと、
「入り口が開いてました」
と滉矢は真顔で返した。
そして、テーブルの空いた席へ資料を広げる。
「町民ホール、夜間の小さい使用枠なら、来月ひとつ押さえられるかもしれません」
麻美と明が同時に顔を上げる。
「本当に?」
「確定ではないです。ただ、改修の都合で空きがひとつ出そうで」
彩奏にもすぐ連絡すると、返信は早かった。『もしホール使えるなら、ピアノ戻せるように調整する』。誰かが一歩動くと、別の誰かの動きも連なっていく。
文明の窓際の席に、気づけば人が集まっていた。晃聡、滉矢、明、麻美。少し遅れて瑞葉も来て、最初の三十分は会計と申請の現実的な線引きをし、風介は電話越しに「パネル立てなら手配できる」と言った。妙依は後から合流し、朗読に使う文章量の目安をすぐに計算し始める。
中止になった取材は戻らない。でも、なくなった分を別の形で生かす道が、目の前で立ち上がっていく。
文明のピアノの上には、相変わらず白いカバーがかかっていた。麻美はその端へ手を置いた。木の温度が、布越しにも少しだけ伝わる。
失うことばかりじゃない。失いかけた時に、誰かが椅子を寄せてくれることもある。
帰り際、晃聡がプリンを持たせてきた。
「おこぼれ」
「それ、最近便利に使ってるでしょ」
「うるせえ、甘いもん食え」
そのやり取りで、ようやく麻美は少しだけ笑えた。
取材中止の朝は、確かに悔しかった。けれど、同じ日の夜には、別の始まりの形がテーブルの上に並んでいた。きれいじゃなくても、始まりは始まりだ。
【終】