初恋はまだ終わらない、隣の席で
第24話 東京からの連絡
町民ホールの使用申請が仮押さえの段階へ進み、文明の店内には急に「本番」という言葉が増えた。誰がどこで何を担当するか。何人入れるか。ピアノの搬入は何時か。商店街の掲示板へ告知を貼るなら、文面はどうするか。現実的な段取りが増えるほど、催しの輪郭も少しずつくっきりしていく。
その一方で、麻美の胸の奥には、別の輪郭が日に日に濃くなっていた。東京の話だ。明はまだ返事をしていない。そう聞いてから数日が過ぎても、そのことは二人のあいだでちゃんと触れられないままだった。仕事をしている時の明はいつも通りで、写真の選定も準備も遅れずに進める。だからこそ、余計に分からない。
八月の終わり、役場との打ち合わせを終えて編集部へ戻る途中、麻美は駅前の歩道橋で足を止めた。下ではバスがゆっくり曲がり、日差しを浴びた車体が白く光る。ふと上を見れば、橋の反対側に明がいた。携帯を耳に当て、手すりの向こうを見ている。
「……はい。分かってます」
声まではっきり届く距離ではない。けれど、その口調だけで相手が東京の仕事先だと分かった。明は普段よりさらに低い声で、短く相槌を打っている。途中で一度だけ、目を閉じるみたいに俯いた。
麻美は気づかれないように数歩下がった。聞くつもりはなかったし、見ていたくもなかった。けれど、その場をすぐに離れるほど器用にもなれない。
電話を切った明は、しばらく動かなかった。画面を見つめたまま、手すりへ片手を置いている。その背中がひどく遠く見えた。十年前に何も言わずいなくなった人の背中と、今ここにいる人の背中が、一瞬だけ重なる。
胸が冷える。けれど、すぐに別の思いが立ち上がる。今回は、勝手に結論を決めない。本人の口から聞く前に、置いていかれた気持ちへ飛びつかない。そう決めたのは、自分だ。
編集部へ戻ると、明は三十分ほど遅れて入ってきた。目が合った瞬間、ほんの少しだけ何か言いたそうにしたが、ちょうど編集長に呼ばれ、そのまま会議スペースへ消えた。
その日の夕方、滉矢が町民ホールの使用許可書のコピーを持ってきた。仮押さえが正式になったのだ。紙を受け取った瞬間、編集部の空気が一度だけ明るく跳ねた。
「夜の二時間半ですけど、朗読と展示なら十分回せると思います」
滉矢が言う。
「ありがとうございます」
麻美は頭を下げた。
「彩奏にも連絡します」
メッセージを送ると、返事はすぐ来た。『やるならピアノ、責任持って戻す。任せて』。短いのに頼もしい。
夜、文明での準備打ち合わせが始まる前、麻美はレジ横の告知用紙の余白を見ながら、題名を書いた。
トキメキをもう一度。
晃聡が覗き込み、
「お、いいじゃん」
と言う。妙依は少しだけ考えてから、
「言い方が古すぎないのがいいです」
と珍しく前向きな感想を述べた。瑞葉は会場費の計算をしながらも、
「覚えやすい」
と一言だけ足す。
みんなが題名の話をしている間、明は窓際の席でパネル用の写真を選んでいた。文明のカウンター、手紙を読む老夫婦、パン屋の店先、ピアノ教室の子どもの手、玄関先の長靴。どれも、今までの特集と、読者から届いた投稿と、この町の暮らしをつなぐ写真だった。
麻美は意を決して近づいた。
「ちょっといい?」
「うん」
明はすぐに顔を上げた。逃げないで聞く、と決めたのは自分だ。
「東京の件」
言った瞬間、明の指が写真の端で止まる。
「この前、歩道橋で電話してたよね」
「……見た?」
「うん。でも、盗み聞きはしてない」
明は小さく息を吐いた。
「ごめん。言おうと思ってた」
「知ってる」
「いや、たぶんそれ、十年前も同じこと思ってた」
その言葉に、麻美は返事を失った。明は目を逸らさないまま続ける。
「今回は、ちゃんと俺の口で言う。今日、終わったら時間くれる?」
今すぐではない。でも、逃げないと先に言った。そのことが、思っていたより大きかった。
「うん」
麻美は答える。
「待つ」
短い会話なのに、心臓がひどくうるさい。昔の自分なら、ここで先に結論を想像して勝手に傷ついていたかもしれない。でも今は、聞く前に決めないための待ち方がある気がした。
打ち合わせが始まると、文明のテーブルの上へ紙が広がる。朗読の順番、展示動線、受付担当、搬入時刻。彩奏はピアノの調律師の連絡先を送り、風介はパネルの枠を古書店併設の印刷所で用意すると言い、瑞葉は予算超過しないよう見えないところで数字を組み直していく。
麻美はその中心に立って、各人の言葉をノートへ落としていった。守られる側ではなく、任される側として。末っ子のお姫様と呼ばれる場所から少しずつ離れた今の自分が、紙の上の線引きひとつにも出る。
打ち合わせが終わる頃には、外はすっかり夜だった。店内の照明がガラスへ映り込み、窓の向こうの商店街が少し遠く見える。
「行こうか」
明が静かに言う。麻美はノートを閉じた。今度は、本人の口から聞く番だ。
【終】
町民ホールの使用申請が仮押さえの段階へ進み、文明の店内には急に「本番」という言葉が増えた。誰がどこで何を担当するか。何人入れるか。ピアノの搬入は何時か。商店街の掲示板へ告知を貼るなら、文面はどうするか。現実的な段取りが増えるほど、催しの輪郭も少しずつくっきりしていく。
その一方で、麻美の胸の奥には、別の輪郭が日に日に濃くなっていた。東京の話だ。明はまだ返事をしていない。そう聞いてから数日が過ぎても、そのことは二人のあいだでちゃんと触れられないままだった。仕事をしている時の明はいつも通りで、写真の選定も準備も遅れずに進める。だからこそ、余計に分からない。
八月の終わり、役場との打ち合わせを終えて編集部へ戻る途中、麻美は駅前の歩道橋で足を止めた。下ではバスがゆっくり曲がり、日差しを浴びた車体が白く光る。ふと上を見れば、橋の反対側に明がいた。携帯を耳に当て、手すりの向こうを見ている。
「……はい。分かってます」
声まではっきり届く距離ではない。けれど、その口調だけで相手が東京の仕事先だと分かった。明は普段よりさらに低い声で、短く相槌を打っている。途中で一度だけ、目を閉じるみたいに俯いた。
麻美は気づかれないように数歩下がった。聞くつもりはなかったし、見ていたくもなかった。けれど、その場をすぐに離れるほど器用にもなれない。
電話を切った明は、しばらく動かなかった。画面を見つめたまま、手すりへ片手を置いている。その背中がひどく遠く見えた。十年前に何も言わずいなくなった人の背中と、今ここにいる人の背中が、一瞬だけ重なる。
胸が冷える。けれど、すぐに別の思いが立ち上がる。今回は、勝手に結論を決めない。本人の口から聞く前に、置いていかれた気持ちへ飛びつかない。そう決めたのは、自分だ。
編集部へ戻ると、明は三十分ほど遅れて入ってきた。目が合った瞬間、ほんの少しだけ何か言いたそうにしたが、ちょうど編集長に呼ばれ、そのまま会議スペースへ消えた。
その日の夕方、滉矢が町民ホールの使用許可書のコピーを持ってきた。仮押さえが正式になったのだ。紙を受け取った瞬間、編集部の空気が一度だけ明るく跳ねた。
「夜の二時間半ですけど、朗読と展示なら十分回せると思います」
滉矢が言う。
「ありがとうございます」
麻美は頭を下げた。
「彩奏にも連絡します」
メッセージを送ると、返事はすぐ来た。『やるならピアノ、責任持って戻す。任せて』。短いのに頼もしい。
夜、文明での準備打ち合わせが始まる前、麻美はレジ横の告知用紙の余白を見ながら、題名を書いた。
トキメキをもう一度。
晃聡が覗き込み、
「お、いいじゃん」
と言う。妙依は少しだけ考えてから、
「言い方が古すぎないのがいいです」
と珍しく前向きな感想を述べた。瑞葉は会場費の計算をしながらも、
「覚えやすい」
と一言だけ足す。
みんなが題名の話をしている間、明は窓際の席でパネル用の写真を選んでいた。文明のカウンター、手紙を読む老夫婦、パン屋の店先、ピアノ教室の子どもの手、玄関先の長靴。どれも、今までの特集と、読者から届いた投稿と、この町の暮らしをつなぐ写真だった。
麻美は意を決して近づいた。
「ちょっといい?」
「うん」
明はすぐに顔を上げた。逃げないで聞く、と決めたのは自分だ。
「東京の件」
言った瞬間、明の指が写真の端で止まる。
「この前、歩道橋で電話してたよね」
「……見た?」
「うん。でも、盗み聞きはしてない」
明は小さく息を吐いた。
「ごめん。言おうと思ってた」
「知ってる」
「いや、たぶんそれ、十年前も同じこと思ってた」
その言葉に、麻美は返事を失った。明は目を逸らさないまま続ける。
「今回は、ちゃんと俺の口で言う。今日、終わったら時間くれる?」
今すぐではない。でも、逃げないと先に言った。そのことが、思っていたより大きかった。
「うん」
麻美は答える。
「待つ」
短い会話なのに、心臓がひどくうるさい。昔の自分なら、ここで先に結論を想像して勝手に傷ついていたかもしれない。でも今は、聞く前に決めないための待ち方がある気がした。
打ち合わせが始まると、文明のテーブルの上へ紙が広がる。朗読の順番、展示動線、受付担当、搬入時刻。彩奏はピアノの調律師の連絡先を送り、風介はパネルの枠を古書店併設の印刷所で用意すると言い、瑞葉は予算超過しないよう見えないところで数字を組み直していく。
麻美はその中心に立って、各人の言葉をノートへ落としていった。守られる側ではなく、任される側として。末っ子のお姫様と呼ばれる場所から少しずつ離れた今の自分が、紙の上の線引きひとつにも出る。
打ち合わせが終わる頃には、外はすっかり夜だった。店内の照明がガラスへ映り込み、窓の向こうの商店街が少し遠く見える。
「行こうか」
明が静かに言う。麻美はノートを閉じた。今度は、本人の口から聞く番だ。
【終】