初恋はまだ終わらない、隣の席で
第25話 置き去りの初恋

 文明を出たあと、二人は商店街を抜け、駅前とは反対の川沿いへ向かった。夏の終わりの夜風は、まだ温度を持っているのに、八月の盛りより少しだけ乾いていた。遠くの道路を走る車の音が途切れ途切れに聞こえる。草の匂い、水の匂い、どこかの家の夕飯が遅れて流れてくる匂い。町の夜は、派手ではないぶん、暮らしの輪郭がそのまま残る。

 明は歩きながら何度か口を開きかけた。けれど、言葉を選ぶ時間が必要なのだと分かったので、麻美は急かさなかった。急かして出てくる言葉より、時間をかけて出てくる言葉の方を、今は聞きたかった。

 川沿いのベンチの前で、明がようやく足を止める。
「ここでいい?」
「うん」
 
 並んで座ると、少し離れたところで自転車が一台通り過ぎていった。ライトだけが細く揺れ、すぐに見えなくなる。

 明は手を組んだまま、しばらく水面を見ていた。
「東京の仕事、正式に来てる」
 
 麻美は頷くだけにした。胸が静かに痛む。けれど、ここで先回りして悲しそうな顔をしたくなかった。

「雑誌の大型連載で、半年単位。前に組んでた編集者から」
「うん」
「写真家としては、かなり大きい」
 
 明はそこで一度息を止める。たぶん本題はそこではない。

「でも、その話を聞いた時、先に浮かんだのが東京の景色じゃなかった」
 
 少し風が吹いた。川の表面がさざめく。

「文明のカウンターとか、編集部の窓とか、彩奏の教室の鍵盤とか、麻美の机の付箋とか。そういうものが先に浮かんだ」
 
 麻美は唇を噛みそうになった。痛いのに嬉しい。嬉しいのに、それだけで済ませたくない。十年前のことがまだ間にあるからだ。

「それでね」
 明は続ける。
「ちゃんと言わないと、また同じになると思った」
 
 その言葉のあとに来た沈黙は、逃げるためのものではなかった。覚悟を作るための沈黙だ。

「高校卒業の三日前、父親が倒れた」
 
 夜気が少しだけ重くなる。麻美は何も言わない。聞いてしまったことはある。でも、今は知らないふりをして、明の口から出る順番を受け取る。

「前から借金の話とか、保証人の話とか、家の中では崩れてたんだけど、俺は詳しく知らされてなかった。卒業したら町を出るにしても、せいぜい進学のためだと思ってた。でも、父親が倒れた日に一気に全部出てきた」
 
 明の指先が組んだ手の甲を強く押す。
「家を畳まないといけなくなって、母親を一人で置けなくて、東京の叔母のとこ行くしかなくなった。進路も白紙。携帯も料金払えなくて止まって、気づいたら、ちゃんとさよなら言う余裕がある顔じゃなくなってた」
 
 麻美は膝の上で手を握った。事情は分かる。昔の自分より、今の自分の方が、その混乱は想像できる。大人の事情は、子どもの恋よりずっと乱暴だ。

「でも」
 
 自分の方から、その言葉が出た。明が顔を上げる。

「でも、言ってほしかった」
 
 声は思ったより震えなかった。ただ、言った瞬間、目の奥が熱くなる。

「事情があったの、分かる。分かるけど、私は、何も知らないまま明日からいなくなる人を、ずっと好きだった。昨日まで隣にいた人が、急にいなくなって、それでも理由も分からないまま、自分だけ置いていかれた感じが、ずっと残った」
 
 言葉にしていくたび、長いあいだ胸の奥へ沈めていたものが浮かび上がる。十代の自分がやっと声を持ったみたいだった。

「私、置いていかれた初恋をずっと磨いてたんだと思う」
 
 麻美は自分で言いながら、少し驚いた。磨いていた。そうだ。傷として持っていたはずなのに、どこかで都合よく、きれいな思い出みたいにしていたのかもしれない。何も言われなかった余白へ、自分の願いを足して。

「明はきっと事情があったんだって、ずっと思ってた。思ってたけど、そう思うことで、自分の寂しさまで立派なものにしてた気もする」
 
 頬を一筋だけ涙が落ちた。拭う前に、明の声が重なる。

「うん」
 
 否定しない。言い訳もしない。ただ受け取るための返事だった。

「守るつもりで黙った」
 明が言う。
「事情なんか話したって、困らせるだけだと思った。好きなやつに、一番みっともない時の自分を見せるのが怖かった。……でも違った」
 
 明ははっきりと顔を上げた。
「あれは守ったんじゃない。置き去りにしただけだった」
 
 その言葉で、麻美の喉の奥にずっと引っかかっていたものが少しだけ動いた。欲しかったのは、完璧な説明ではない。あの時の自分が置き去りにされた事実を、本人の口で認めてもらうことだったのかもしれない。

「ごめん」
 
 明がそう言う。短いのに、軽くない。十年前に聞けなかった謝罪が、今の夜に届く。

 麻美は涙を拭った。許せたわけではない。きれいに全部が解けたわけでもない。けれど、ここから先へ進めるだけの地面が、足の下へ戻ってきた感じがした。

「すぐには、全部平気にならない」
「うん」
「たぶん、時々また腹立つ」
「それでいい」
「よくないでしょ」
 
 泣きながらなのに、少しだけ笑えてしまう。明も苦く笑った。その顔が、昔好きだった男の子ではなく、ちゃんと失敗して、ちゃんと認めようとしている大人に見えた。

 しばらく沈黙が落ちたあと、明がもう一度言う。
「東京の話、まだ答えてない」
「うん」
「今は、逃げる理由にしたくない」
 
 麻美は横顔を見る。川の向こうの街灯が、明の頬の輪郭だけをうっすら照らしていた。
「仕事をどうするかは、ちゃんと考える。でも、その前に、麻美に言っておきたいことがあった」
 
 心臓が一度強く打つ。けれど、ここではまだ、その先を急がない方がいい気がした。今日は、過去の話を終わらせる夜だ。

「……ありがとう」
 麻美は言う。
「ちゃんと言ってくれて」
「遅すぎたけど」
「うん。遅かった」
 
 そこは譲らない。譲らないまま、それでも今の言葉を受け取る。

 立ち上がると、ベンチの下に溜まっていた熱が足もとから抜けた。帰り道、二人はすぐには手をつながなかったし、恋人みたいなことも何ひとつしなかった。けれど、別れ際の空気は前と違った。

「また明日」
 
 今度は明が先に言った。麻美は頷く。
「また明日」
 
 その約束は、十年前の続きをなぞるためではなく、今の二人がちゃんと明日へ進むための言葉に聞こえた。
【終】

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