初恋はまだ終わらない、隣の席で
第26話 トキメキをもう一度
九月の初め、朝の空気にほんの少しだけ乾いたものが混じり始めた。まだ半袖で十分なのに、真夏のように肌へまとわりつく感じは薄れている。編集部の窓を開けた麻美は、その変化を一番先に指先で感じた。風が紙の端を持ち上げても、不快ではない。仕事が動き出す季節の風だと思った。
町民ホールでの一夜限りの催し『トキメキをもう一度』まで、あと十日。準備は、思っていた以上に細かく、そして思っていた以上に人の手を必要とした。
まず、朗読に使う文章を決めることから始まった。連載『ノンフィクションの恋物語』で掲載してきた聞き書きの中から、会場で耳にするとより響く部分を抜き出し、長すぎれば削り、短すぎれば前後の呼吸を足す。活字で読んだ時の良さと、声にした時の良さは違う。妙依は赤ペンを片手に、
「ここ、目で追うならいいですけど、耳だと一回迷子になります」
「この一文、息継ぎの場所がないです」
と容赦なく切っていった。
麻美は何度も自分で読み上げ、文章の重さを口で確かめた。夫婦の湯呑みの話は柔らかく、再婚同士の家族の話は少し遅めに、喫茶店文明の場面は息を一つ浅くして。それぞれの暮らしの温度が、声になることで別の形で立ち上がる。
明は明で、展示用の写真を一から組み直していた。誌面に載せたものだけでは足りない。紙面では脇に置いた一枚、掲載の順番から外した一枚、取材の途中で撮った何気ない一枚。文明のカップを持つ晃聡の手、パン屋の夫婦が店を閉める時に同じ方向へ腕を伸ばす瞬間、彩奏の教室で鍵盤へ指を置く小さな手と、その横で待つ大人の膝。
「これも出すの?」
麻美が訊くと、
「出したい」
と明は答える。
「記事のための写真じゃなくて、町のための写真として」
その言い方に、麻美は何も言えなくなった。仕事のために町を切り取るのではなく、町がそこにいた証として残す。その覚悟みたいなものが、写真の選び方にも出ていた。
風介の印刷所では、パネル用の出力が始まった。古書店併設の建物の奥で、大きな紙が機械から少しずつ吐き出されるたび、インクの匂いが広がる。風介は角が折れないように軍手の指先を折り込み、乾ききる前の面へ決して触れない。麻美はタイトルのレイアウトを確認しながら、
「こんなにちゃんと形になるんだ」
と漏らした。
「当たり前だ」
風介は言う。
「ちゃんと形にするために、みんなで騒いでんだろ」
瑞葉は会場費、印刷費、パネル資材、飲み物の差し入れ、告知チラシの枚数まで、全部表に落として管理していた。数字の欄が埋まっていくたび、得体の知れない不安が少しずつ現実へ変わる。現実になれば、対処できる。瑞葉の仕事はいつもそうだった。
「赤字にはしない」
瑞葉は計算表を見ながら言う。
「せっかくいい催しでも、終わったあと誰かが一人で泣く形にはしない」
その言い方に、麻美は思わず笑った。
「泣くのは私たちじゃなくて、お客さんの方であってほしい」
「そういう意味じゃない」
言葉は冷たいのに、守っているものは温かい。
彩奏は町民ホールの調律師との調整に加え、朗読の合間に入れる短いピアノ曲を選んでいた。大げさすぎず、でも耳に残るもの。誰もが知っている曲ではなく、聞いたことがなくても懐かしさのある旋律。文明に置かれている間、白いカバーの下で眠っていたアップライトピアノを、会場の真ん中へ戻すための準備だ。
「ピアノってね」
ホールの下見の日、彩奏が空っぽの客席を見ながら言った。
「弾くための楽器だけど、置いてあるだけでも人の気配を変えるんだよ」
ホールはまだ照明を半分しか入れていなかった。舞台袖から見る客席は薄暗く、古い椅子の布が長いあいだ人を待っていたように見える。
「だから、そこにあるだけで、誰かの呼吸を少しだけゆるめる」
麻美はその言葉を覚えておこうと思った。自分が書いてきたものも、本当はそうありたい。読んだ人の呼吸を少しだけゆるめるもの。
催しの告知文は、結局麻美が書いた。
『写真と朗読とピアノでたどる、まちの恋の風景。遠くの奇跡ではなく、毎日のすぐそばにある気持ちを、静かな夜の町民ホールで。』
見出しの下に題名が入る。トキメキをもう一度。商店街の掲示板へ貼ると、通りすがりの人が足を止めて読んだ。晃聡はそれを少し離れたところから見ていて、
「読んでる顔、わりといい」
と満足そうに言った。
準備のあいだ、麻美は自分の家族とも少しだけ向き合うことになった。実家へ寄った夜、姉が冷蔵庫から麦茶を出しながら言う。
「最近、忙しそうだね」
「うん。催しの準備」
「顔つき変わった」
兄も横から、
「前は“任されたからやる”って感じだったのに、今は“やりたいから回してる”顔」
と言った。
少し悔しいけれど、たぶん当たっている。末っ子のお姫様。家で軽く呼ばれていたその言葉は、守られてきた証でもある。けれど今の麻美は、その枠の中にずっと座っているつもりがなくなっていた。
「忙しいけど、嫌じゃない」
麻美が言うと、姉は笑う。
「それならいい」
家族は、思っていたよりあっさりと、今の自分をそのまま見てくれるのかもしれない。
催しの三日前、町民ホールへピアノが戻った。文明から運び出す朝、晃聡はいつもより少し口数が少なかった。白いカバーを外し、木の表面を丁寧に拭く。長いあいだ店にあったものが動く時、人は物にさえ見送り方を持つ。
「寂しい?」
麻美が聞くと、
「ちょっとな」
と晃聡は認めた。
「でも、ちゃんと鳴るとこ行くなら、その方がいい」
搬出に立ち会った明は、その横顔を撮らなかった。ただ、ピアノの脚を支える晃聡の手だけを一枚撮った。好きな場所から何かを送り出す時の手だ。
ホールの舞台へピアノが据えられると、空っぽの空間が急に生き物みたいになった。彩奏が鍵盤をそっと開け、試しに音を鳴らす。高音が少しだけ湿気を含み、低音は思ったよりまっすぐ客席へ飛んだ。
「大丈夫」
彩奏が微笑む。
「この子、まだちゃんと歌える」
明はその言葉を聞いて、舞台袖から客席までを一度ゆっくり見渡した。次に立つ位置、光の落ち方、パネルを置いた時に人が立ち止まる場所。その目は仕事の時の目なのに、以前ほど硬くなかった。
前日のリハーサルで、麻美は朗読の出だしを何度も噛んだ。文章を知っているはずなのに、空っぽの客席を前にすると急に喉が狭くなる。妙依が客席の真ん中から言う。
「一文目をうまく読もうとしないでください」
「でも」
「うまい朗読より、呼吸のある朗読の方が残ります」
言われた通り、一文目を整えすぎるのをやめると、二文目からは少しだけ声が前へ出た。舞台の端では彩奏が静かに頷き、滉矢は受付導線の確認をしながらも、ちゃんと聞いている。
リハーサルのあと、誰もいない客席で明がぽつりと言った。
「麻美の声、いいね」
「急に何」
「記事読んでる時と違う」
「それは記事だからでしょ」
「違う。書いてる人の声って感じする」
その褒め方はずるい。顔が熱くなるのをごまかすため、麻美は台本を閉じた。
帰り道、町民ホールの裏手から見上げた空には、まだ夏の名残りの雲が薄く残っていた。風は少しだけ涼しい。準備はまだ全部終わっていない。明日も当日もきっとばたつく。けれど、不思議と怖さばかりではなかった。
人が集まって、椅子を並べ、写真を立て、音を鳴らし、声を届ける。誰かの恋の話を、自分たちの町の夜へ置く。そのために、これだけ多くの手が動いている。
守られる末っ子ではなく、任せられる一人としてそこに立つ。麻美はそのことを、今ならもう少しだけ自然に受け入れられる気がした。
催しのタイトルを最後にもう一度ノートへ書く。
トキメキをもう一度。
昔のときめきへ戻るためではなく、今の暮らしの中で、もう一度それを見つけるための夜になるように。麻美はそう願いながら、ペン先を止めた。
【終】
九月の初め、朝の空気にほんの少しだけ乾いたものが混じり始めた。まだ半袖で十分なのに、真夏のように肌へまとわりつく感じは薄れている。編集部の窓を開けた麻美は、その変化を一番先に指先で感じた。風が紙の端を持ち上げても、不快ではない。仕事が動き出す季節の風だと思った。
町民ホールでの一夜限りの催し『トキメキをもう一度』まで、あと十日。準備は、思っていた以上に細かく、そして思っていた以上に人の手を必要とした。
まず、朗読に使う文章を決めることから始まった。連載『ノンフィクションの恋物語』で掲載してきた聞き書きの中から、会場で耳にするとより響く部分を抜き出し、長すぎれば削り、短すぎれば前後の呼吸を足す。活字で読んだ時の良さと、声にした時の良さは違う。妙依は赤ペンを片手に、
「ここ、目で追うならいいですけど、耳だと一回迷子になります」
「この一文、息継ぎの場所がないです」
と容赦なく切っていった。
麻美は何度も自分で読み上げ、文章の重さを口で確かめた。夫婦の湯呑みの話は柔らかく、再婚同士の家族の話は少し遅めに、喫茶店文明の場面は息を一つ浅くして。それぞれの暮らしの温度が、声になることで別の形で立ち上がる。
明は明で、展示用の写真を一から組み直していた。誌面に載せたものだけでは足りない。紙面では脇に置いた一枚、掲載の順番から外した一枚、取材の途中で撮った何気ない一枚。文明のカップを持つ晃聡の手、パン屋の夫婦が店を閉める時に同じ方向へ腕を伸ばす瞬間、彩奏の教室で鍵盤へ指を置く小さな手と、その横で待つ大人の膝。
「これも出すの?」
麻美が訊くと、
「出したい」
と明は答える。
「記事のための写真じゃなくて、町のための写真として」
その言い方に、麻美は何も言えなくなった。仕事のために町を切り取るのではなく、町がそこにいた証として残す。その覚悟みたいなものが、写真の選び方にも出ていた。
風介の印刷所では、パネル用の出力が始まった。古書店併設の建物の奥で、大きな紙が機械から少しずつ吐き出されるたび、インクの匂いが広がる。風介は角が折れないように軍手の指先を折り込み、乾ききる前の面へ決して触れない。麻美はタイトルのレイアウトを確認しながら、
「こんなにちゃんと形になるんだ」
と漏らした。
「当たり前だ」
風介は言う。
「ちゃんと形にするために、みんなで騒いでんだろ」
瑞葉は会場費、印刷費、パネル資材、飲み物の差し入れ、告知チラシの枚数まで、全部表に落として管理していた。数字の欄が埋まっていくたび、得体の知れない不安が少しずつ現実へ変わる。現実になれば、対処できる。瑞葉の仕事はいつもそうだった。
「赤字にはしない」
瑞葉は計算表を見ながら言う。
「せっかくいい催しでも、終わったあと誰かが一人で泣く形にはしない」
その言い方に、麻美は思わず笑った。
「泣くのは私たちじゃなくて、お客さんの方であってほしい」
「そういう意味じゃない」
言葉は冷たいのに、守っているものは温かい。
彩奏は町民ホールの調律師との調整に加え、朗読の合間に入れる短いピアノ曲を選んでいた。大げさすぎず、でも耳に残るもの。誰もが知っている曲ではなく、聞いたことがなくても懐かしさのある旋律。文明に置かれている間、白いカバーの下で眠っていたアップライトピアノを、会場の真ん中へ戻すための準備だ。
「ピアノってね」
ホールの下見の日、彩奏が空っぽの客席を見ながら言った。
「弾くための楽器だけど、置いてあるだけでも人の気配を変えるんだよ」
ホールはまだ照明を半分しか入れていなかった。舞台袖から見る客席は薄暗く、古い椅子の布が長いあいだ人を待っていたように見える。
「だから、そこにあるだけで、誰かの呼吸を少しだけゆるめる」
麻美はその言葉を覚えておこうと思った。自分が書いてきたものも、本当はそうありたい。読んだ人の呼吸を少しだけゆるめるもの。
催しの告知文は、結局麻美が書いた。
『写真と朗読とピアノでたどる、まちの恋の風景。遠くの奇跡ではなく、毎日のすぐそばにある気持ちを、静かな夜の町民ホールで。』
見出しの下に題名が入る。トキメキをもう一度。商店街の掲示板へ貼ると、通りすがりの人が足を止めて読んだ。晃聡はそれを少し離れたところから見ていて、
「読んでる顔、わりといい」
と満足そうに言った。
準備のあいだ、麻美は自分の家族とも少しだけ向き合うことになった。実家へ寄った夜、姉が冷蔵庫から麦茶を出しながら言う。
「最近、忙しそうだね」
「うん。催しの準備」
「顔つき変わった」
兄も横から、
「前は“任されたからやる”って感じだったのに、今は“やりたいから回してる”顔」
と言った。
少し悔しいけれど、たぶん当たっている。末っ子のお姫様。家で軽く呼ばれていたその言葉は、守られてきた証でもある。けれど今の麻美は、その枠の中にずっと座っているつもりがなくなっていた。
「忙しいけど、嫌じゃない」
麻美が言うと、姉は笑う。
「それならいい」
家族は、思っていたよりあっさりと、今の自分をそのまま見てくれるのかもしれない。
催しの三日前、町民ホールへピアノが戻った。文明から運び出す朝、晃聡はいつもより少し口数が少なかった。白いカバーを外し、木の表面を丁寧に拭く。長いあいだ店にあったものが動く時、人は物にさえ見送り方を持つ。
「寂しい?」
麻美が聞くと、
「ちょっとな」
と晃聡は認めた。
「でも、ちゃんと鳴るとこ行くなら、その方がいい」
搬出に立ち会った明は、その横顔を撮らなかった。ただ、ピアノの脚を支える晃聡の手だけを一枚撮った。好きな場所から何かを送り出す時の手だ。
ホールの舞台へピアノが据えられると、空っぽの空間が急に生き物みたいになった。彩奏が鍵盤をそっと開け、試しに音を鳴らす。高音が少しだけ湿気を含み、低音は思ったよりまっすぐ客席へ飛んだ。
「大丈夫」
彩奏が微笑む。
「この子、まだちゃんと歌える」
明はその言葉を聞いて、舞台袖から客席までを一度ゆっくり見渡した。次に立つ位置、光の落ち方、パネルを置いた時に人が立ち止まる場所。その目は仕事の時の目なのに、以前ほど硬くなかった。
前日のリハーサルで、麻美は朗読の出だしを何度も噛んだ。文章を知っているはずなのに、空っぽの客席を前にすると急に喉が狭くなる。妙依が客席の真ん中から言う。
「一文目をうまく読もうとしないでください」
「でも」
「うまい朗読より、呼吸のある朗読の方が残ります」
言われた通り、一文目を整えすぎるのをやめると、二文目からは少しだけ声が前へ出た。舞台の端では彩奏が静かに頷き、滉矢は受付導線の確認をしながらも、ちゃんと聞いている。
リハーサルのあと、誰もいない客席で明がぽつりと言った。
「麻美の声、いいね」
「急に何」
「記事読んでる時と違う」
「それは記事だからでしょ」
「違う。書いてる人の声って感じする」
その褒め方はずるい。顔が熱くなるのをごまかすため、麻美は台本を閉じた。
帰り道、町民ホールの裏手から見上げた空には、まだ夏の名残りの雲が薄く残っていた。風は少しだけ涼しい。準備はまだ全部終わっていない。明日も当日もきっとばたつく。けれど、不思議と怖さばかりではなかった。
人が集まって、椅子を並べ、写真を立て、音を鳴らし、声を届ける。誰かの恋の話を、自分たちの町の夜へ置く。そのために、これだけ多くの手が動いている。
守られる末っ子ではなく、任せられる一人としてそこに立つ。麻美はそのことを、今ならもう少しだけ自然に受け入れられる気がした。
催しのタイトルを最後にもう一度ノートへ書く。
トキメキをもう一度。
昔のときめきへ戻るためではなく、今の暮らしの中で、もう一度それを見つけるための夜になるように。麻美はそう願いながら、ペン先を止めた。
【終】