初恋はまだ終わらない、隣の席で
第27話 硬くない写真

 催し当日の朝、町民ホールの搬入口は八時前から開いていた。空は明るいのに、風にははっきり秋の気配が混じっている。汗をかくほどではないが、じっとしていると腕の表面が少しひんやりする。その微妙な季節の境目が、今夜の催しには合っている気がした。

 麻美が着いた時には、風介がすでにパネルを二枚運び込み終えていた。軍手の片方を噛んで外しながら、
「遅え」
と言うが、時計を見ればまだ集合十分前だ。
「早いんだよ」
 麻美が返すと、
「知ってる」
とだけ返ってくる。
 
 そのあとに来た晃聡は、文明のロゴ入りの紙袋を両手に提げていた。中身は差し入れ用のサンドイッチと、小さな焼き菓子。こういう日でも、食べるものを忘れないところが店主だ。
「働く人間が倒れたら格好つかねえからな」
 と言いながら、受付裏へさっさと並べていく。

 瑞葉は会場使用許可証の控えと会計封筒を最初に確認し、滉矢は受付導線の貼り紙の位置を一センチ単位で直していた。彩奏は調律師と最後のやり取りを終え、舞台の上で鍵盤を一度ずつ確かめていく。妙依は台本を手に、
「ここ、間を一拍増やしてください」
と麻美へ最終指示を飛ばした。

 明はホール全体を見ていた。搬入口から舞台、舞台から客席、客席からロビー、ロビーから展示スペース。まず全体を見る男だということを、麻美は初めて再会した日から知っている。けれど今日は、その見方の中に、冷たさより体温がある。何を守りたいのかが、前よりはっきり見える目だった。

 午前中はあっという間に過ぎた。展示パネルを立て、投稿写真と文章の配置を調整し、朗読順に合わせて照明の落ち方を確認する。客が立ち止まる動線も、混みすぎない程度の間隔も、全部人の歩幅で決まる。パネルの高さを二センチ下げるだけで、前に立った人の肩の力が少し抜けることもある。

「ここ、写真近すぎるかも」
 麻美が言うと、明が一歩引いて見た。
「うん。二枚入れ替えよう」
 
 老夫婦の手紙の写真の隣に、玄関先の長靴の写真を置く。すると、見る順番が自然につながった。外で待つことと、中で帰りを迎えること。別々の投稿が、一つの暮らしの時間みたいに見える。

 昼過ぎには、何人かの近所の人が準備中の様子を覗きに来た。正式な開場前だからまだ入れないが、それでもガラス越しに展示を見ている顔がある。晃聡が受付の外で、
「夜にちゃんと来いよ」
と手を振ると、年配の夫婦が少し照れたように笑った。

 開場は十八時。まだ日は残っていたが、ロビーのガラス越しに見える空は少しずつ色を落としていく。受付に立つ麻美は、名簿とチラシと案内札を前にして、久しぶりに喉の奥が乾くのを感じた。仕事で緊張することは少なくなったはずなのに、今日は別だ。自分たちの誌面の外へ出たものが、本当に人の胸へ届くのかを、この目で見る夜だから。

 最初の客は、文明の常連らしい年配の男性だった。帽子を取りながら受付で言う。
「こういうの、若い人向けかと思ったけどな」
「誰でも大丈夫です」
 麻美が笑うと、
「じゃあ見てみるか」
と入っていく。
 
 そのあとも、商店街の人、投稿を送ってくれた人、役場の広報を見た家族連れ、仕事帰りの二人組、高校生らしい制服姿。人は多すぎず少なすぎず、ちょうどいい速度で集まってきた。大声で賑わう催しではない。だからこそ、一人ひとりが立ち止まる場所と、黙って見ている時間がよく見える。

 展示スペースでは、明の写真の前で足を止める人が何度もいた。文明のカウンター越しに置かれた手、パン屋の夫婦が閉店後に残りのパンを袋へ分ける横顔、ピアノ教室の子どもが間違えたあとにもう一度指を置く瞬間。説明が多くない写真なのに、見ている人の表情が柔らかく変わる。

 麻美は開演前のロビーで、ある一枚の前に立つ若い女性を見かけた。写真は、買い物袋を片手に、自転車を押して歩く二人の後ろ姿。女性は長く見つめたあと、小さく笑って同行の男性に言った。
「うちもこの前こんな感じだったね」
 
 その何でもない一言に、胸の奥がじんとする。派手な感動じゃない。自分の暮らしへ持ち帰るための小さな気づき。麻美がこの特集で拾いたかったのは、たぶんずっとこれだ。

 開演時間が来る。客席は満席ではないけれど、空きが寂しく感じないくらいに埋まっていた。照明が少し落ち、舞台の上のピアノにだけ、やわらかい光が残る。彩奏が椅子へ座り、短い前奏を一曲だけ弾いた。最初の和音がホールに広がった瞬間、ざわめきがすっと引く。古いアップライトピアノの音は、きらびやかではない。少し木の匂いがするような音だ。だからこそ、この夜に合っていた。

 司会の簡単な挨拶のあと、麻美が舞台へ出る。客席の暗がりの向こうに、見知った顔がいくつも見えた。晃聡、瑞葉、風介、滉矢、彩奏。文明の常連の夫婦、投稿を送ってくれた高校生、役場の人。明は客席後方の壁際に立っている。撮影ではなく、今日は見届ける人の位置だ。

 麻美は最初の一文を読む前に、一拍だけ置いた。妙依に言われた通り、うまくやろうとしない。呼吸を入れる。紙の音がマイクに拾われる。その小さな現実が、かえって落ち着かせてくれた。

「この町には、毎日顔を合わせる人の数だけ、小さな恋の風景があります」
 
 声は少し震えたが、二文目からは前へ出た。パン屋の夫婦の話、再婚同士の家族の話、文明の話。朗読の合間に彩奏の短い演奏が入り、客席の空気がやわらかくつながっていく。

 中盤、麻美が『身近な恋の風景』の投稿をいくつか読む場面で、客席から小さな笑いが起きた。『夫は言葉が少ないです。でも、エアコンが効きすぎると、私の席の下へ黙ってひざ掛けを置きます。たぶん、あれも恋です。』。それを読むと、前方の席のどこかで誰かが照れたように咳払いした。笑いは長引かない。代わりに、隣の人の腕へそっと触れた気配が、暗がりの中でいくつか動いた。

 終盤、明の写真が大きく映し出される時間があった。スクリーンに映るのは、店先で笑う老夫婦の一枚。そのあとに続く、笑う前の口元、手紙を開く指、玄関先の長靴、ピアノの蓋に触れる手。スクリーンの光が客席の顔へ落ちるたび、表情が変わる。

 舞台袖にいた編集長が、その映像の終わり際にぽつりと漏らした。
「もう、硬くないな」
 
 麻美はその声をはっきり聞いた。技術の話ではなく、写真そのものがようやく呼吸し始めたことへの言葉だと分かる。振り向けば、編集長は腕を組んだまま、画面から目を離していなかった。

 明自身は、その言葉を聞こえたかどうか分からない。けれど客席後方で、肩の力がほんの少しだけ抜けたのが見えた。誰かの承認を待っていたわけではなくても、自分が変わったことを他人の目が受け取る瞬間はある。

 朗読の最後に、麻美はあとがきの一部を読んだ。

「恋は、遠くで起きる大きな奇跡だけではありません。毎日顔を合わせる人の沈黙や手つきの中にも、ちゃんとあります。言葉にしないで通り過ぎることもできるけれど、立ち止まってみれば、そこにずっとあったのだと気づくことがあります」

 読み終えたあと、ホールは一秒だけ完全に静かになった。拍手が起きるまでの、その一秒。麻美はその無音が好きだと思った。届いたかどうかを、言葉より先に教えてくれる時間だから。

 拍手は大きすぎず、でも途切れなかった。客席のあちこちで、人が顔を上げる。泣いている人はいない。けれど、じんわりと胸へ残るものを抱えた顔がいくつもある。

 終演後、ロビーはまた静かな賑わいに戻った。展示を見直す人、投稿の前で立ち話を始める人、文明の焼き菓子を手に取る人。役場の広報担当者が、
「またこういうの、続けたいですね」
と滉矢へ話しかけているのも見えた。晃聡の差し入れのサンドイッチは思った以上に早くなくなり、彩奏は子ども連れの母親にピアノのことを質問されていた。

 麻美は舞台袖から客席を見渡した。片付けが始まる前の、少しだけ混ざり合った人の輪。写真と朗読と音楽が、誰かの暮らしの話へ戻っていく時間。

 その時、後方の壁際で、明がこちらを見ているのに気づいた。カメラ越しではない、まっすぐな目だった。探していたのだと思う。写真ではなく、自分の目で。

 麻美もまた、その視線を受け止めた。昔好きだった少年ではない。今ここで、選び直したいと思う大人が立っている。

 胸の中で、何かが静かに定まっていく。言葉にするのはまだ少し先でも、その方向はもう間違えようがなかった。

 トキメキをもう一度。タイトルをつけた時には少し気恥ずかしかったその言葉が、この夜の終わりにはちゃんと似合っていた。過去へ戻るのではなく、今の暮らしの中で、もう一度、いや、初めてに近い形でそれを見つけるための夜になったからだ。
【終】

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