初恋はまだ終わらない、隣の席で
第28話 呼吸を取り戻す

 終演後の町民ホールは、開演前とは別の静けさをしていた。人がたくさんいた場所には、去ったあとの気配が残る。客席に置かれた体温、ロビーに落ちた小さな笑い声、パネルの前で立ち止まっていた人たちの間。目には見えないのに、確かにそこにあるものが、照明の落ちた空間へ薄く漂っている。

 撤収は想像していたよりも穏やかに進んだ。風介がパネルの脚を外し、滉矢が受付回りの備品を一つずつ箱へ戻し、瑞葉は会計封筒をその場で確認しながら、
「赤字じゃない」
とまず最初に報告した。晃聡は残った焼き菓子を一個単位で配り、
「持って帰れ。賞味期限より気持ち優先」
と言って妙依にだけ二つ渡し、きっちり一つ返されていた。

 彩奏は最後までピアノのそばを離れなかった。鍵盤の蓋を閉じる前に、指先でそっと布をかける。働き終えた楽器へ、ありがとうを言う人の動きだった。

「今日、よかったね」
 麻美が近づくと、彩奏は振り向いて笑った。
「うん。音がちゃんと帰る場所があった」
「帰る場所」
「そう。誰かの耳でも、町でも、どっちでも」
 
 その答えがあまりに彩奏らしくて、麻美は疲れているのに少し笑った。

 客席の片付けがほぼ終わった頃、照明が一度だけ不自然に明滅した。ばち、とどこかで小さな音がして、ロビー側の電気が一瞬だけ落ちる。
「え」
 
 麻美が顔を上げたのと同時に、舞台袖の通路が暗くなった。完全な停電ではない。非常灯はすぐに点いたし、数秒後には客席の上手側の照明も戻った。けれど、一瞬、視界が暗さへ沈んだことで、胸の奥に十年前と似たような不安が跳ねた。

 気づけば、麻美は舞台袖のピアノのそばに立っていた。片付けの途中でそこへ移動したはずなのに、暗くなった瞬間、自分の足がどこへ向いたのか分からなくなる。古いホール独特の、電気が戻るまでの数秒の無音。その短さが、逆に体の深い場所をつかんだ。

 また、何も言われないまま消えるのではないか。

 そんな考えは理屈に合わない。もう明は子どもの頃のままではないし、自分も同じ置き去りのされ方を待っているわけではない。それでも、怖さは理屈より速い。

「麻美」
 
 暗がりの中で、明の声がした。次の瞬間、非常灯の薄い明かりの中に明の姿が見える。舞台袖からこちらへまっすぐ来る、少し急いだ足取り。胸の奥で止まりかけていた呼吸が、そこでやっと動いた。

「大丈夫?」
 明が聞く。
「うん……大丈夫」
 
 そう答えた声が、自分でも少し頼りない。明はそれを見抜いただろう。でも、からかったり軽く扱ったりしない。舞台の縁へ片手をつき、麻美と同じ高さまで少しだけ体を寄せる。

「今の、ブレーカーの接触だって」
「うん」
「もう戻った」
「分かってる」
 
 分かっているのに、肩の力が完全には戻らない。明はそこで、少しだけ言葉を探したように黙り、やがてはっきり言った。

「今度は、何も言わずにいなくならない」
 
 心臓が一度だけ強く打つ。暗さの残る舞台袖で、その言葉だけがくっきり聞こえた。十年前の夜へ返事をするみたいな声だった。

「約束する」
 明は続ける。
「仕事のことで迷っても、行くにしても残るにしても、ちゃんと言う。麻美を置いたまま決めたりしない」
 
 麻美はすぐには返事ができなかった。欲しかった言葉だ。ずっと。でも、欲しかったからこそ、簡単にうなずいてしまうのも少し怖い。信じたい。けれど、信じることには、自分で扉を開ける痛さがある。

「じゃあ」
 麻美はやっと声を出した。
「ちゃんと言って」
「うん」
「私、察するの、もう疲れた」
 
 明は少しだけ目を伏せて、それから頷く。
「ごめん」
「謝るのも、ちゃんと聞く」
 
 二人のあいだに落ちた沈黙は、以前みたいに冷たくなかった。外ではまだ撤収の気配がある。風介の台車の音、晃聡が何か笑っている声、瑞葉の「伝票なくさないで」という鋭い注意。その日常の音が、かえって今の言葉を現実にしてくれる。

 明は舞台の上のピアノを見た。
「今日の最後、麻美の朗読聞いて、思ったんだ」
「何を」
「呼吸、戻ってきたなって」
 
 思わず麻美は笑ってしまう。
「私?」
「うん。最初に再会した頃より、ずっと」
「それ、彩奏にも似たようなこと言われた」
「だろうね」
 
 彩奏の教室で言われた『会ったあと、呼吸が少し深くなってる』という言葉を思い出す。あの時はまだ、はっきり認めるのが怖かった。けれど今なら分かる。明のそばにいる時、苦しくなることもある。でもそれは、息ができない苦しさではなく、ちゃんと吸い込むために胸が広がる時の痛みに近い。

 照明が完全に戻り、舞台袖の暗さが薄れる。明の顔がはっきり見えるようになった。嘘をつこうとしている顔ではない。まだ迷いはあるのだろう。でも、その迷いごと見せている顔だ。

「私も」
 麻美は言った。
「ちゃんと言うようにする」
「うん」
「困るだけじゃなくて、もう少し」
 
 その先は、今夜は言わない。言える場所が、きっともう少しだけ先にある。

 片付けが終わったのは、二十二時を少し回った頃だった。最後にホールの扉を閉め、鍵を預ける段になって、滉矢が深く息をついた。
「無事終わってよかったです」
「ほんとに」
 麻美が答えると、
「……彩奏さんのピアノ、すごくよかったです」
と、いつもよりわずかに個人的な感想を漏らす。
 
 彩奏はそれを聞いて、
「ありがとう」
とだけ返したが、その声が少し柔らかかったのを麻美は聞き逃さなかった。

 文明へ戻って軽い打ち上げをする案も出たが、みんな疲れていたので、今日は解散になった。晃聡だけが最後に、
「明日、ピアノ戻すなら朝早いぞ」
と言って指を立てる。
「遅れるなよ」
「誰に言ってるの」
 麻美が返すと、
「主に明」
「なんで俺」
「顔が寝不足」
 
 そんなやり取りをしながら、それぞれが夜の町へ散っていく。

 駅前へ向かう道で、麻美と明は並んで歩いた。大きな言葉はもう使い切ったあとみたいに、会話は少ない。けれど、無言が前ほど怖くない。

 途中、橋の上で風が吹いた。初秋の風だ。麻美は手すりに触れ、下を流れる暗い水を見た。怖さが全部なくなったわけではない。でも、あの数秒の暗さのあとで、ちゃんと呼ばれて、ちゃんと答えられた。

 呼吸を取り戻す、というのは、たぶんこういうことなのだ。

「明」
 麻美が名を呼ぶ。
「うん」
「今日、来てくれてよかった」
 
 明は一瞬だけ笑った。
「俺も」
 
 それだけで十分だった。今夜はまだ、未来の全部を決める夜ではない。けれど、置き去りにされる怖さより、並んで歩く現実の方が少しだけ大きくなった夜ではあった。
【終】

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