初恋はまだ終わらない、隣の席で
第29話 一緒にいたい

 催しの翌朝、町はいつも通りの顔をしていた。通学路には小学生が列を作り、商店街では八百屋が段ボールを開け、文明の前を通る人は昨日ここからピアノが運ばれていったことなど知らないみたいに歩いていく。大きなことが起きた翌日ほど、日常はあっけない。そのあっけなさに救われることもあるし、少し寂しくなることもある。

 麻美は編集部へ向かう前に、一度だけ町民ホールへ寄った。舞台の上には、まだ昨夜の余韻が残っている。パネルは片付いたのに、ピアノだけがその場に静かに置かれていて、照明のないホールでも存在感があった。彩奏と調律師が最後の確認をし、搬出の業者が来るのを待っているところだった。

「寝た?」
 彩奏が聞く。
「少し」
「それならえらい」
 
 麻美が苦笑すると、彩奏は鍵盤へそっと布をかけた。
「昨日、よかったね」
「うん」
「言いたいこと、少し増えた顔してる」
 
 相変わらず、その言い方はずるい。何を言おうとしているのか、直接は決めつけない。それでも、胸の中の変化だけは見逃さない。

「まだ全部じゃないけど」
 麻美が答えると、
「全部じゃなくていいよ」
と彩奏は言った。
「全部いきなり言えたら、たぶん小説にならない」
 
 思わず笑ってしまう。確かにそうだ。人生はたいてい、言えなかった分まで含めて形になる。

 ピアノが文明へ戻ってきたのは昼前だった。白い布に包まれた楽器が運び込まれると、店の空気が急に落ち着いたように見える。晃聡は入口のドアを大きく開け、脚の位置を確認しながら、
「おかえり」
とひとりごとのように言った。
 
 明は業者の手伝いをしながら、ピアノの角へ一度だけ手を置く。その手つきが、昨日より少し柔らかかった。楽器を戻すというより、昨夜の空気ごと持ち帰ってくるみたいな触れ方だ。

 文明は昼営業を少し遅らせ、そのぶん関係者だけで残りの作業をした。晃聡は会場で余った紙コップを片付け、風介はパネルの枠を回収し、瑞葉は会計の締めをつける。滉矢は役場向けの簡単な実施報告の雛形を作り、妙依は朗読で使った原稿へ鉛筆でメモを入れていた。

「なに書いてるの」
 麻美が覗き込むと、
「今後使う時のために、噛みやすい箇所」
と返ってくる。
「今後もやる前提?」
「好評なら、検討はします」
 
 妙依がさらりと言うので、麻美は思わず顔を見た。催しは一夜限りのつもりだった。でも、誰かが「今後」と言うだけで、昨日がその場限りではなくなる。

 店のカウンターでは、晃聡が昨夜の余り材料で作った少し甘めのプリンを配っていた。
「打ち上げのやり直し」
「やり直しって何」
 麻美が聞くと、
「昨日は忙しくてちゃんと褒めてもらってない」
と晃聡が言う。
 
 誰に、と聞くまでもなく、妙依の方を見る。妙依はプリンのスプーンを止め、
「業務範囲外です」
と昨日と同じ台詞を返した。
「じゃあ業務委託で」
「受けません」
「ひどい」
 
 そのやり取りに、疲れの残る空気が少しだけ軽くなる。

 ただ、明とは、朝からまともに二人きりで話せていなかった。互いに忙しいし、話すべきことを急いで雑にしたくない気持ちもある。昨夜、舞台袖で約束した言葉は、今も体の中に残っている。ちゃんと言う。ちゃんと聞く。その準備を、二人ともそれぞれにしている感じだった。

 夕方、いったん解散してから、麻美は編集部へ戻った。催しの反響メールが予想以上に届いていたからだ。役場経由の感想、来場者からの短いお礼、投稿を送った人からの「展示で自分の文章を見て泣きそうになった」というメッセージ。文明の常連だという人からは、「ああいう夜なら、また行きたい」と一行だけ届いていた。

 編集長はそのメール群を読み、しばらく腕を組んでから言った。
「最終号、これで締めよう」
 
 連載の最後を、催しまで含めた形でまとめる。その指示は麻美にとって嬉しかったが、同時に責任の大きさも増した。誌面で終えるためには、昨夜をただ「成功しました」で片付けられない。どうしてあの夜が必要だったのか、どうして写真と朗読とピアノだったのか、ちゃんと書かなければいけない。

 夜になり、作業を一段落させた頃、明から短いメッセージが届いた。

『閉店後、文明で待ってる』

 たったそれだけ。なのに、画面を見た瞬間、胸の内側がじわりと熱くなる。逃げ道の少ない文面だ。待ってる。来るかどうかは麻美に委ねながら、でも自分はそこにいると言っている。

 文明へ着くと、店内はもう閉店の札がかかっていた。外の商店街はシャッターの閉まった店が増え、明かりは飛び飛びだ。晃聡が入口を少しだけ開けており、
「奥、いる」
とだけ言う。からかう顔でも、面白がる顔でもない。珍しく店主らしく、余計なことを挟まない声だった。

 店の奥、窓際のピアノのそばに明がいた。営業中にはかけない小さなスタンドだけが点いている。白いカップにコーヒーが二つ。昨日の催しの名残みたいに、店の空気が少しだけ静かだ。

「来た」
 麻美が言うと、
「来てくれてよかった」
と明が返す。
 
 向かい合って座る。大げさな雰囲気ではない。冷めかけのコーヒーの匂いと、窓の向こうの商店街の灯りと、ピアノの木の匂い。身近な景色の中で、それでも今夜は何かが変わると分かる。

 最初は仕事の話から始まった。催しの反響、最終号の構成、展示で好評だった写真の並び。そうやって、いつもの二人の話し方で少しずつ距離を測る。けれど、どちらも本題を忘れているわけではない。

「今日、編集長に言われた」
 明が言う。
「“もう硬くないな”って」
「聞いてた」
「聞いてたのか」
「うん」
 
 麻美は笑う。
「嬉しかった?」
「……嬉しかった」
 明は正直に認めた。
「でもそれより、昨日、写真を見た人の顔見てたら、ああいうの撮りたかったんだなって、後から分かった」
 
 麻美はカップを持ち直した。後から分かることはある。自分の気持ちも、たぶんそうだ。昔から好きだった、だけでは説明できない、今の好きがある。

「東京の話」
 麻美が言う。
「どうするの」
 
 明はここでも逃げなかった。カップを置き、まっすぐ答える。
「本数を絞って受ける」
「え」
「完全に戻る形じゃなくて、期間ごとに行く。向こうの編集にもそれで話してる」
 
 麻美は思わず息を止めた。残るのか、行くのか、その二択だと思っていた。けれど、明は続ける。

「どっちか一つを捨てる形にしたくなかった。写真の仕事も、今この町で見つけたものも、片方だけ正しいことにしたくない」
 
 その選び方が、明らしくもあり、今の明だからこそできた選び方にも思えた。逃げるための中間ではない。暮らしの中で両方を育てるための決め方だ。

「それに」
 明が少し声を落とす。
「ここを、手放したくない」
 
 ここ。その一語に、編集部も、文明も、商店街も、たぶん麻美も含まれているのが分かった。

 麻美はゆっくり息を吸う。今なら、こっちもちゃんと言わなければいけない。

「私も」
 言いかけて、喉が少しだけ詰まる。
「私も、手放したくない」
 
 明の目が動く。麻美は続ける。

「十年前の明じゃなくて、今ここにいる明を。催しの前に動線を見てる顔とか、写真の端を直す手とか、電話を切ったあとでも逃げないで話そうとしてくれるところとか。そういう今の明を、私はちゃんと好きなんだと思う」
 
 口にすると、体のどこかが少し痛い。でも、痛いだけじゃない。やっと自分の言葉が、自分の中身と同じ速さで出てくる感じがする。

 明は何も挟まずに聞いていた。昔みたいに不意にいなくなる人の顔ではない。聞き終わるまでそこにいる人の顔だ。

「昔の続きをしたいんじゃない」
 
 明がはっきり言う。ピアノの木枠へ手を置いたまま、言葉だけはまっすぐ前へ出る。
「置き去りにした初恋の続きを綺麗にやり直したいんじゃなくて、今の麻美と、一緒にいたい」
 
 その言葉で、胸の奥の何かが静かにほどけた。過去をなぞる告白ではない。今を選ぶ告白だ。

「私も」
 麻美の声は震えたが、途切れなかった。
「過去の明じゃなくて、今ここにいる明といたい」
 
 言い終えた瞬間、自分でも少し笑ってしまう。もっと上手い言い方もあったかもしれない。でも、これでいい。今の自分の言葉だ。

 明が息を吐く。ようやく息をしていいと許されたみたいな顔だった。
「よかった」
「うん」
「ずっと、ここで間違えたらどうしようと思ってた」
「間違えたら、たぶんまた言い直せばいい」
 
 その返しに、明が笑う。前よりずっと柔らかくなった笑い方だ。

 次の瞬間、二人は自然に少しだけ近づいていた。劇的な音も、誰かの拍手もない。店の時計が小さく鳴り、外で自転車が通り過ぎる気配がする。その日常の中で、明がそっと麻美の手に触れた。確認するみたいな、逃げ道を残した触れ方だったから、麻美の方から指を重ねる。

 手は思っていたより温かい。十年前の記憶の中の誰かの手ではなく、今この町で働いて、写真を撮って、迷って、それでも言葉を選んできた人の手だ。

 どれくらいそうしていたのか分からない。扉の向こうで物音がして、二人は同時に顔を上げた。晃聡が気まずそうに半分だけ顔を出し、
「あー……ごめん、氷取りに」
と言う。
 
 あまりに見え透いた口実で、麻美は思わず笑った。晃聡は咳払いをひとつして、
「続けてどうぞ」
と小声で言い、すぐ消える。
 
 その数分後、レジの方から妙依の声がした。
「晃聡さん、うるさいです」
「何も言ってねえよ」
「顔が」
「顔は生まれつきです」
「知ってます」
 
 小さな笑いが店内に戻る。その音さえ、今日の二人にはありがたかった。恋が成就する瞬間まで、町の人たちの気配から完全に切り離されない。この物語らしいと思った。

 閉店後の文明で、少し冷めたコーヒーを飲みながら、二人はこれからのことを少しだけ話した。東京の仕事はどう回すか、まちあかりの最終号が終わったあとも、また撮影の仕事は一緒にできるか。付き合う、という単語をわざわざ確認しなくても、会話の向きがもう同じ場所を向いている。

「明」
 麻美が名前を呼ぶ。
「うん」
「今度、ちゃんと家族にも言うかも」
「俺も、晃聡には言わなくてもばれてるけど」
「妙依にもね」
「それはもう無理」
 
 笑いながらそんな話をしているうちに、肩の力がどんどん抜けていく。恋が始まるのは、もっと派手で、もっと息が止まるような瞬間だと思っていた。けれど実際は、閉店後の喫茶店で、冷めたコーヒーの前に座り、明日もまた会える前提の話をすることだったりするのかもしれない。

 帰る前、ピアノの前で立ち止まる。子どもの頃、一度だけ明に蓋の開け方を教わったあの記憶が、今夜は少し違う色を帯びていた。昔の続きをやり直すためではなく、ここから新しく音を鳴らせる気がする。

「一緒にいたい」
 
 さっき互いに言ったばかりなのに、麻美はもう一度口にした。確認のように。
「私も」
 明が答える。
 
 その言葉は、過去への執着ではなく、未来の意思として店の静けさの中に置かれた。
【終】

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