初恋はまだ終わらない、隣の席で
第4話 喫茶店「文明」
火曜日の午後、「文明」はランチの混雑が過ぎて、少しだけ静かな時間帯に入っていた。窓際の二人席には新聞を読む年配の男性がいて、奥の丸テーブルでは母親どうしらしい二人が小声で話している。コーヒーミルの低い音と、皿が触れ合う乾いた音が、店の空気を細く支えていた。
麻美は取材ノートを開き、明の向かいの席へ座った。カウンターの向こうでは、晃聡がグラスを拭きながら口元だけで笑っている。
「そんなかしこまんなくていいのに」
「仕事なので」
「かっちりしてんなあ、編集さん」
「今日はちゃんと取材です」
「今日“は”って何」
晃聡が笑い、布巾を肩にかけなおした。軽口が先に出る人だが、こちらが本題へ入ると、ちゃんと空気を整えてくれる。その加減がうまい。
麻美は録音機を置き、取材趣旨をもう一度説明した。商店街の特集であること。誰かの特別な恋を大きく飾るのではなく、町の中で続いている関係や、場所に残る気持ちを拾いたいこと。晃聡は途中で二度頷き、最後まで遮らずに聞いた。
「で、うちで何しゃべればいい?」
「まずは、この店のことを。継いだきっかけとか」
「恋の話じゃなくて?」
「たぶん、そこにつながるので」
「言うねえ」
晃聡はそう言いながらも、少しだけ真面目な顔になった。カウンターの木目に指先を置き、爪で一度だけ軽く叩く。
「祖母ちゃんの店だったんだよ、ここ。昔ながらの喫茶店。俺が小さいころから、学校帰りの高校生も、仕事帰りのおっちゃんも、なんかしら座ってた」
「ご家族で?」
「いや、最初は祖母ちゃん一人。あと時々、うちの母親。俺は邪魔しに来る係」
そこで客が一人入ってきた。晃聡は話を切り上げて、自然な笑顔で迎える。注文を聞く声が大きすぎず、でもちゃんと届く。その背中を、明が黙って撮った。カメラを向けられているのに、晃聡はわざとらしく構えない。手だけがよく働く。
客が落ち着いたころ、晃聡はまた話へ戻った。
「祖母ちゃんが亡くなった時、一回は閉める話も出たんだ。でも、店の鍵を返したら、ここで時間つぶしてた人たちの行き先がなくなる気がして」
「それで継いだ」
「まあ、かっこいい言い方するとね。本当は、なくなったら自分が寂しかった」
その言葉が店内の空気にすっと馴染んだ。麻美はペンを走らせながら、恋の話を聞こうとしていたのに、もっと手前のところへ触れている感覚を覚えた。人を好きになる前に、場所を好きでいる気持ちがある。場所に残る誰かの手つきや、声の癖や、コーヒーの匂いごと守りたいと思う気持ちが。
「祖母さまがいらした頃の写真は残っていますか」
麻美が聞くと、晃聡は少し考えたあと、カウンター下の引き出しから古いアルバムを持ってきた。角の擦れた、紺色の表紙だった。
ページをめくると、若い頃の祖母と祖父、開店当時の店内、まだ子どもの晃聡らしい姿が写っている。喫茶店の椅子は今より明るい色で、窓際にはまだ例のアップライトピアノがなかった。
「これ、ホールにあったピアノを預かる前だ」
晃聡が壁際を顎で示す。
麻美はつられてそちらを見た。今は使われていないアップライトピアノが、壁へ寄せるように置かれている。焦げ茶の艶は少し鈍く、蓋の端に細かな傷がいくつも走っていた。
「今度そこも聞かせて。気になる」
「気になるのそこ?」
「店の空気に入ってるから」
「編集さんっぽい答えだなあ」
明はそのやりとりの最中も、会話へ入らない。ただ、アルバムをめくる晃聡の指、ページの端の癖、古い写真をのぞき込む麻美の横顔、その周辺へ漂う午後の光を静かに切り取っていく。
麻美はその視線を完全には無視できなかった。見られている、と感じるのではなく、撮られる手前の気配だけがある。昔、明は人をじっと見る人ではなかった。けれど必要なときだけ、不意に核心へ触れるような目をした。その名残が、今もある。
一通り話を聞き終え、録音機を止めた頃、晃聡が冷蔵ケースを開けた。
「はい、取材のおこぼれ」
小さなガラス皿に乗ったプリンが二つ、ことんと置かれる。カラメルが濃く、表面はつやつやしている。
「え、いいの」
「試作。午後の客少ない時間に出すか迷ってたやつ。食べた感想ちょうだい」
「じゃあ遠慮なく」
「遠慮はしろ。でも食べろ」
晃聡らしい物言いに、思わず麻美は笑った。明もかすかに口元を緩める。その顔を見てしまい、麻美は慌ててプリンへ視線を落とした。
問題は、スプーンが一本しかついていなかったことだ。
「……晃聡」
「ん?」
「これ、一個」
「洗いもん減らしたい」
「人手あるでしょ」
「あるけど減らしたい」
絶対わざとだ。麻美がじろりと睨むと、晃聡は肩を揺らして笑った。結局、別の小皿と小さいスプーンを借りるまで、二人はしばらく妙な沈黙のまま皿を見つめるしかなかった。
「先どうぞ」
明が言う。
「いや、そっちが」
「じゃあ半分取り分ける」
「……うん」
それだけのやりとりなのに、スプーンが皿に触れる音まで妙に大きく感じる。晃聡はわざわざ背を向けてコーヒー豆を量っていたが、耳だけはこちらへ向けているのがわかった。
プリンは、思ったよりしっかりしていて、口に入れると卵の味が濃かった。カラメルはほろ苦いのに、あとへ残る甘さがやさしい。
「どう?」
晃聡が聞く。
「おいしい」
「うん」
明も短く頷く。
「お、珍しく意見一致」
「珍しくって何」
「幼なじみって、好き嫌いも合いそうで合わなさそうじゃん」
麻美は反論しようとして、ふと止まった。昔、明は甘いものがそこまで得意ではなかったはずだ。なのに、プリンの皿はきれいに空になっている。
「……甘いの、平気になったんだ」
思わず口にすると、明がこちらを見た。
「前よりは」
「そうなんだ」
「そっちは相変わらず、カラメル濃いの好きなんだな」
覚えていたのか、と聞けなかった。麻美はスプーンを皿の上に置き、少しだけ視線を伏せた。
取材を終えて店を出ると、春の風が商店街の旗を揺らしていた。空は少し曇り始めている。明は店の前に立ち止まり、ガラス越しの店内を一枚撮った。カウンターの向こうで働く晃聡の手と、窓に映った外の通りが一緒に入る位置だった。
「顔じゃなくて、手」
麻美がぽつりと言う。
「うん」
「さっきの、撮りたかったんだ」
「たぶん」
「たぶんって」
「まだ、ちゃんとわかってない」
明はカメラを下ろし、短く息を吐いた。うまく説明できないときの癖まで昔と同じで、麻美は胸の奥を小さくつつかれたような気持ちになる。
店の扉が内側から開き、晃聡が顔だけ出した。
「おーい、麻美。プリンの感想、今度ちゃんと原稿に書けよ」
「喫茶店の甘味記事じゃないから」
「人の店の努力を恋に混ぜろ」
「雑」
「雑なくらいがちょうどいい恋もあるって」
その台詞だけが、風の中で妙に長く残った。
【終】
火曜日の午後、「文明」はランチの混雑が過ぎて、少しだけ静かな時間帯に入っていた。窓際の二人席には新聞を読む年配の男性がいて、奥の丸テーブルでは母親どうしらしい二人が小声で話している。コーヒーミルの低い音と、皿が触れ合う乾いた音が、店の空気を細く支えていた。
麻美は取材ノートを開き、明の向かいの席へ座った。カウンターの向こうでは、晃聡がグラスを拭きながら口元だけで笑っている。
「そんなかしこまんなくていいのに」
「仕事なので」
「かっちりしてんなあ、編集さん」
「今日はちゃんと取材です」
「今日“は”って何」
晃聡が笑い、布巾を肩にかけなおした。軽口が先に出る人だが、こちらが本題へ入ると、ちゃんと空気を整えてくれる。その加減がうまい。
麻美は録音機を置き、取材趣旨をもう一度説明した。商店街の特集であること。誰かの特別な恋を大きく飾るのではなく、町の中で続いている関係や、場所に残る気持ちを拾いたいこと。晃聡は途中で二度頷き、最後まで遮らずに聞いた。
「で、うちで何しゃべればいい?」
「まずは、この店のことを。継いだきっかけとか」
「恋の話じゃなくて?」
「たぶん、そこにつながるので」
「言うねえ」
晃聡はそう言いながらも、少しだけ真面目な顔になった。カウンターの木目に指先を置き、爪で一度だけ軽く叩く。
「祖母ちゃんの店だったんだよ、ここ。昔ながらの喫茶店。俺が小さいころから、学校帰りの高校生も、仕事帰りのおっちゃんも、なんかしら座ってた」
「ご家族で?」
「いや、最初は祖母ちゃん一人。あと時々、うちの母親。俺は邪魔しに来る係」
そこで客が一人入ってきた。晃聡は話を切り上げて、自然な笑顔で迎える。注文を聞く声が大きすぎず、でもちゃんと届く。その背中を、明が黙って撮った。カメラを向けられているのに、晃聡はわざとらしく構えない。手だけがよく働く。
客が落ち着いたころ、晃聡はまた話へ戻った。
「祖母ちゃんが亡くなった時、一回は閉める話も出たんだ。でも、店の鍵を返したら、ここで時間つぶしてた人たちの行き先がなくなる気がして」
「それで継いだ」
「まあ、かっこいい言い方するとね。本当は、なくなったら自分が寂しかった」
その言葉が店内の空気にすっと馴染んだ。麻美はペンを走らせながら、恋の話を聞こうとしていたのに、もっと手前のところへ触れている感覚を覚えた。人を好きになる前に、場所を好きでいる気持ちがある。場所に残る誰かの手つきや、声の癖や、コーヒーの匂いごと守りたいと思う気持ちが。
「祖母さまがいらした頃の写真は残っていますか」
麻美が聞くと、晃聡は少し考えたあと、カウンター下の引き出しから古いアルバムを持ってきた。角の擦れた、紺色の表紙だった。
ページをめくると、若い頃の祖母と祖父、開店当時の店内、まだ子どもの晃聡らしい姿が写っている。喫茶店の椅子は今より明るい色で、窓際にはまだ例のアップライトピアノがなかった。
「これ、ホールにあったピアノを預かる前だ」
晃聡が壁際を顎で示す。
麻美はつられてそちらを見た。今は使われていないアップライトピアノが、壁へ寄せるように置かれている。焦げ茶の艶は少し鈍く、蓋の端に細かな傷がいくつも走っていた。
「今度そこも聞かせて。気になる」
「気になるのそこ?」
「店の空気に入ってるから」
「編集さんっぽい答えだなあ」
明はそのやりとりの最中も、会話へ入らない。ただ、アルバムをめくる晃聡の指、ページの端の癖、古い写真をのぞき込む麻美の横顔、その周辺へ漂う午後の光を静かに切り取っていく。
麻美はその視線を完全には無視できなかった。見られている、と感じるのではなく、撮られる手前の気配だけがある。昔、明は人をじっと見る人ではなかった。けれど必要なときだけ、不意に核心へ触れるような目をした。その名残が、今もある。
一通り話を聞き終え、録音機を止めた頃、晃聡が冷蔵ケースを開けた。
「はい、取材のおこぼれ」
小さなガラス皿に乗ったプリンが二つ、ことんと置かれる。カラメルが濃く、表面はつやつやしている。
「え、いいの」
「試作。午後の客少ない時間に出すか迷ってたやつ。食べた感想ちょうだい」
「じゃあ遠慮なく」
「遠慮はしろ。でも食べろ」
晃聡らしい物言いに、思わず麻美は笑った。明もかすかに口元を緩める。その顔を見てしまい、麻美は慌ててプリンへ視線を落とした。
問題は、スプーンが一本しかついていなかったことだ。
「……晃聡」
「ん?」
「これ、一個」
「洗いもん減らしたい」
「人手あるでしょ」
「あるけど減らしたい」
絶対わざとだ。麻美がじろりと睨むと、晃聡は肩を揺らして笑った。結局、別の小皿と小さいスプーンを借りるまで、二人はしばらく妙な沈黙のまま皿を見つめるしかなかった。
「先どうぞ」
明が言う。
「いや、そっちが」
「じゃあ半分取り分ける」
「……うん」
それだけのやりとりなのに、スプーンが皿に触れる音まで妙に大きく感じる。晃聡はわざわざ背を向けてコーヒー豆を量っていたが、耳だけはこちらへ向けているのがわかった。
プリンは、思ったよりしっかりしていて、口に入れると卵の味が濃かった。カラメルはほろ苦いのに、あとへ残る甘さがやさしい。
「どう?」
晃聡が聞く。
「おいしい」
「うん」
明も短く頷く。
「お、珍しく意見一致」
「珍しくって何」
「幼なじみって、好き嫌いも合いそうで合わなさそうじゃん」
麻美は反論しようとして、ふと止まった。昔、明は甘いものがそこまで得意ではなかったはずだ。なのに、プリンの皿はきれいに空になっている。
「……甘いの、平気になったんだ」
思わず口にすると、明がこちらを見た。
「前よりは」
「そうなんだ」
「そっちは相変わらず、カラメル濃いの好きなんだな」
覚えていたのか、と聞けなかった。麻美はスプーンを皿の上に置き、少しだけ視線を伏せた。
取材を終えて店を出ると、春の風が商店街の旗を揺らしていた。空は少し曇り始めている。明は店の前に立ち止まり、ガラス越しの店内を一枚撮った。カウンターの向こうで働く晃聡の手と、窓に映った外の通りが一緒に入る位置だった。
「顔じゃなくて、手」
麻美がぽつりと言う。
「うん」
「さっきの、撮りたかったんだ」
「たぶん」
「たぶんって」
「まだ、ちゃんとわかってない」
明はカメラを下ろし、短く息を吐いた。うまく説明できないときの癖まで昔と同じで、麻美は胸の奥を小さくつつかれたような気持ちになる。
店の扉が内側から開き、晃聡が顔だけ出した。
「おーい、麻美。プリンの感想、今度ちゃんと原稿に書けよ」
「喫茶店の甘味記事じゃないから」
「人の店の努力を恋に混ぜろ」
「雑」
「雑なくらいがちょうどいい恋もあるって」
その台詞だけが、風の中で妙に長く残った。
【終】