初恋はまだ終わらない、隣の席で
第5話 恋の聞き書き、はじめました
木曜日の朝、麻美は商店街掲示板へ貼る告知文を三案持って編集部に入った。一枚目は無難、二枚目は少しやわらかい、三枚目は自分でも照れくさいくらい真正面だ。
瑞葉が先に見て、迷わず三枚目を指した。
「これ」
「え、これ?」
「うん。いちばん恥ずかしいけど、いちばん覚える」
「恥ずかしいよね」
「企画自体がもう恥ずかしいんだから、今さら引いても同じ」
その言い方は乱暴なのに、妙に背中を押す。麻美は三枚目の紙を見下ろした。
恋の聞き書き、はじめました。
文字にすると、近い。近すぎて、ちょっと笑ってしまうくらい近い。けれど、どこかの誰かの大きな恋ではなく、通りの角を曲がった先の話を書きたいなら、このくらいでいいのかもしれない。
編集長もそれに頷いた。
「うん、これだな。気取ってない」
「じゃあこれで出します」
「写真もつけよう。堅い告知だけだと通り過ぎる」
そこで全員の視線が自然と明へ向いた。明は少しだけ考え、パソコン画面をこちらへ向けた。昨日「文明」で撮った一枚だった。窓際の席に置かれたコーヒーカップと、開きかけの新聞、奥でぼやける人の姿。恋愛を直接語ってはいないのに、誰かを待つ時間の気配がある。
「これ、いい」
麻美が言うと、明は頷いただけだった。
「店名が出すぎないようにトリミングして使えば、告知にも合うと思う」
「お願いしていい?」
「うん」
昼前、掲示板へ告知を貼りに行くと、商店街は配達の自転車や買い物帰りの人でほどよく賑わっていた。共同掲示板は文具店と青果店のあいだにあり、町内会の連絡、習字教室の募集、譲りますの紙が何枚も重なっている。そこに新しい告知を貼ると、白地に黒い文字が妙に目立った。
恋の聞き書き、はじめました。
麻美は画鋲を最後まで押し込みながら、自分の耳まで少し熱くなるのを感じた。
「近いなあ」
隣で晃聡が言う。
「近いね」
「でも、嫌いじゃない」
「私も」
取材協力を頼みに来ていた晃聡は、腕を組んだまま告知を見上げた。店のエプロンをしたままなのに、完全に見物人の顔をしている。
「“募集”とか“投稿歓迎”とかじゃなくて、聞き書き、ってのがいいな。勝手に話を集めるんじゃなくて、ちゃんと聞く感じする」
「そう思ってくれるならよかった」
「思ってる。あと、“はじめました”がゆるくていい」
「そこも笑われるかと思った」
「笑うけど、覚える」
そこへ買い物袋を提げた中年の女性が立ち止まり、掲示板を見た。
「あら、面白そうねえ」
「こんにちは」
麻美は一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「生活情報誌『まちあかり』の特集で――」
「知ってる知ってる。あのね、うちの両親の話ならどうかしら」
想定していたよりずっと早く、具体的な申し出が来た。麻美は思わず目を見開いた。
「ご両親、ですか」
「もう七十過ぎてるけど、昔この商店街で八百屋やってたの。いまは引退したけど、毎朝一緒に散歩してるのよ。恋の話ってほどじゃないかもしれないけど」
「いえ、ぜひ詳しく伺いたいです」
女性は「じゃあ今度電話して」と連絡先を書いてくれた。告知を貼ってから五分も経っていない。紙一枚で何かが動くことが、こんなに生々しいとは思わなかった。
そのやりとりのあいだ、明は少し離れた位置から掲示板を撮っていた。麻美が視線を送ると、風で告知の端がわずかにめくれる。その瞬間を狙ってシャッターを切る。
「え、今の?」
「うん」
「めくれてたよ」
「見て」
画面をのぞくと、白い紙の端がほんの少し浮き、その向こうに古い張り紙の色あせた端が見えていた。きれいにまっすぐ貼られた告知ではなく、春の風に少しだけ揺れている始まりの紙。
「そんな中途半端な見た目でいいの」
「始まりって、だいたいきれいじゃないから」
さらりと言われて、麻美は言葉を失った。
高校の頃、文化祭の準備で教室の後ろに貼ったポスターを思い出す。まっすぐ貼れなくて、何度も剥がしては貼り直した麻美に、明が「少しくらいずれてても、最初は誰もそんなとこ見ない」と笑った日のこと。励まされたのか、適当にあしらわれたのか、その時はわからなかった。でも、今の言い方はあの日に似ていた。
午後、編集部へ戻ると、電話が二件入っていた。ひとつは先ほどの女性から、もうひとつは文具店の店主からだった。どちらも「うちの知り合いに、話してもよさそうな夫婦がいる」とのことだった。企画は思っていたよりずっと、人の口づてで広がるらしい。
麻美はメモを取りながら、胸の奥が少しずつ熱くなるのを感じた。自分が考えた言葉で、人が足を止めた。ほんの少しでも、次の一歩を動かした。大げさではない変化が、確かに起きている。
夕方、校正担当の妙依が、無言で一枚の紙を置いていった。告知文の校正刷りだった。赤字は一箇所しか入っていない。
「“お話を聞かせてください”の“ください”は、ひらがなの方が柔らかい」
「うん、そうする。ありがとう」
「読んだ人が、自分のことかもしれないって思える文になってました」
妙依はそれだけ言って、すぐ自席へ戻った。褒められたのだと理解するまでに三秒かかった。
帰り道、商店街を抜ける前にもう一度掲示板を見に行くと、告知の前で立ち止まっている若い夫婦がいた。ベビーカーを押しながら、夫のほうが「こういうの、うちも十年後なら話せるかな」と笑い、妻が「まず十年続いてから言って」と返している。
聞こえるとも思っていない軽いやりとりなのに、麻美はその場でしばらく足を止めた。恋愛の記事を書く。けれど、それは誰かの告白や別れだけを書くのではなく、こういうふとした掛け合いの中にあるものを拾うことなのだと、少しわかった気がした。
帰宅後、ノートに今日のことをまとめる。掲示板の位置、風の向き、告知を見上げた人の表情、晃聡の笑い方、明の撮った紙の端。
最後に、ふと思いついて一行書いた。
恋は、大きな始まりより、少しめくれた紙みたいなものかもしれない。
自分で書いて、少し気恥ずかしくなった。でも消さなかった。今日は、消さないほうがいい気がした。
【終】
木曜日の朝、麻美は商店街掲示板へ貼る告知文を三案持って編集部に入った。一枚目は無難、二枚目は少しやわらかい、三枚目は自分でも照れくさいくらい真正面だ。
瑞葉が先に見て、迷わず三枚目を指した。
「これ」
「え、これ?」
「うん。いちばん恥ずかしいけど、いちばん覚える」
「恥ずかしいよね」
「企画自体がもう恥ずかしいんだから、今さら引いても同じ」
その言い方は乱暴なのに、妙に背中を押す。麻美は三枚目の紙を見下ろした。
恋の聞き書き、はじめました。
文字にすると、近い。近すぎて、ちょっと笑ってしまうくらい近い。けれど、どこかの誰かの大きな恋ではなく、通りの角を曲がった先の話を書きたいなら、このくらいでいいのかもしれない。
編集長もそれに頷いた。
「うん、これだな。気取ってない」
「じゃあこれで出します」
「写真もつけよう。堅い告知だけだと通り過ぎる」
そこで全員の視線が自然と明へ向いた。明は少しだけ考え、パソコン画面をこちらへ向けた。昨日「文明」で撮った一枚だった。窓際の席に置かれたコーヒーカップと、開きかけの新聞、奥でぼやける人の姿。恋愛を直接語ってはいないのに、誰かを待つ時間の気配がある。
「これ、いい」
麻美が言うと、明は頷いただけだった。
「店名が出すぎないようにトリミングして使えば、告知にも合うと思う」
「お願いしていい?」
「うん」
昼前、掲示板へ告知を貼りに行くと、商店街は配達の自転車や買い物帰りの人でほどよく賑わっていた。共同掲示板は文具店と青果店のあいだにあり、町内会の連絡、習字教室の募集、譲りますの紙が何枚も重なっている。そこに新しい告知を貼ると、白地に黒い文字が妙に目立った。
恋の聞き書き、はじめました。
麻美は画鋲を最後まで押し込みながら、自分の耳まで少し熱くなるのを感じた。
「近いなあ」
隣で晃聡が言う。
「近いね」
「でも、嫌いじゃない」
「私も」
取材協力を頼みに来ていた晃聡は、腕を組んだまま告知を見上げた。店のエプロンをしたままなのに、完全に見物人の顔をしている。
「“募集”とか“投稿歓迎”とかじゃなくて、聞き書き、ってのがいいな。勝手に話を集めるんじゃなくて、ちゃんと聞く感じする」
「そう思ってくれるならよかった」
「思ってる。あと、“はじめました”がゆるくていい」
「そこも笑われるかと思った」
「笑うけど、覚える」
そこへ買い物袋を提げた中年の女性が立ち止まり、掲示板を見た。
「あら、面白そうねえ」
「こんにちは」
麻美は一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「生活情報誌『まちあかり』の特集で――」
「知ってる知ってる。あのね、うちの両親の話ならどうかしら」
想定していたよりずっと早く、具体的な申し出が来た。麻美は思わず目を見開いた。
「ご両親、ですか」
「もう七十過ぎてるけど、昔この商店街で八百屋やってたの。いまは引退したけど、毎朝一緒に散歩してるのよ。恋の話ってほどじゃないかもしれないけど」
「いえ、ぜひ詳しく伺いたいです」
女性は「じゃあ今度電話して」と連絡先を書いてくれた。告知を貼ってから五分も経っていない。紙一枚で何かが動くことが、こんなに生々しいとは思わなかった。
そのやりとりのあいだ、明は少し離れた位置から掲示板を撮っていた。麻美が視線を送ると、風で告知の端がわずかにめくれる。その瞬間を狙ってシャッターを切る。
「え、今の?」
「うん」
「めくれてたよ」
「見て」
画面をのぞくと、白い紙の端がほんの少し浮き、その向こうに古い張り紙の色あせた端が見えていた。きれいにまっすぐ貼られた告知ではなく、春の風に少しだけ揺れている始まりの紙。
「そんな中途半端な見た目でいいの」
「始まりって、だいたいきれいじゃないから」
さらりと言われて、麻美は言葉を失った。
高校の頃、文化祭の準備で教室の後ろに貼ったポスターを思い出す。まっすぐ貼れなくて、何度も剥がしては貼り直した麻美に、明が「少しくらいずれてても、最初は誰もそんなとこ見ない」と笑った日のこと。励まされたのか、適当にあしらわれたのか、その時はわからなかった。でも、今の言い方はあの日に似ていた。
午後、編集部へ戻ると、電話が二件入っていた。ひとつは先ほどの女性から、もうひとつは文具店の店主からだった。どちらも「うちの知り合いに、話してもよさそうな夫婦がいる」とのことだった。企画は思っていたよりずっと、人の口づてで広がるらしい。
麻美はメモを取りながら、胸の奥が少しずつ熱くなるのを感じた。自分が考えた言葉で、人が足を止めた。ほんの少しでも、次の一歩を動かした。大げさではない変化が、確かに起きている。
夕方、校正担当の妙依が、無言で一枚の紙を置いていった。告知文の校正刷りだった。赤字は一箇所しか入っていない。
「“お話を聞かせてください”の“ください”は、ひらがなの方が柔らかい」
「うん、そうする。ありがとう」
「読んだ人が、自分のことかもしれないって思える文になってました」
妙依はそれだけ言って、すぐ自席へ戻った。褒められたのだと理解するまでに三秒かかった。
帰り道、商店街を抜ける前にもう一度掲示板を見に行くと、告知の前で立ち止まっている若い夫婦がいた。ベビーカーを押しながら、夫のほうが「こういうの、うちも十年後なら話せるかな」と笑い、妻が「まず十年続いてから言って」と返している。
聞こえるとも思っていない軽いやりとりなのに、麻美はその場でしばらく足を止めた。恋愛の記事を書く。けれど、それは誰かの告白や別れだけを書くのではなく、こういうふとした掛け合いの中にあるものを拾うことなのだと、少しわかった気がした。
帰宅後、ノートに今日のことをまとめる。掲示板の位置、風の向き、告知を見上げた人の表情、晃聡の笑い方、明の撮った紙の端。
最後に、ふと思いついて一行書いた。
恋は、大きな始まりより、少しめくれた紙みたいなものかもしれない。
自分で書いて、少し気恥ずかしくなった。でも消さなかった。今日は、消さないほうがいい気がした。
【終】