初恋はまだ終わらない、隣の席で
第6話 東北訛りの夜

 初回掲載の締切が近づくと、編集部の空気は目に見えて変わる。電話の本数が増え、プリンターの音が止まず、誰かの机で切った修正紙の端が床へ落ちる。夕方を過ぎるころには、窓の外が暗くなったことに気づかないまま手だけが動いている。

 麻美は和菓子屋夫妻の聞き書きをまとめながら、同じ段落を三度書き直していた。二人が毎朝相手のお茶の濃さを変えている、という一文を、どう置けば大げさにならず、でもちゃんと伝わるだろう。

 隣の席では瑞葉が経費表を閉じ、ファイル名を確認している。妙依は原稿の赤入れを終え、静かな足音で机のあいだを行き来する。明は会議室で、写真のセレクトをしていた。

「麻美、その表現だと説明しすぎ」
 妙依が原稿を指した。
「“優しさの形がにじんでいた”はいらない。にじんでるなら、書かなくてもにじむ」
「……はい」
 
 正しい。悔しいけれど、正しい。麻美は該当箇所を消した。人の気持ちを言葉にしたくて、つい先回りしてしまう。けれど、言い切った瞬間にこぼれるものもある。

 校了予定の三十分前、編集長がようやく最終確認を終えた。明の写真も決まり、初回の見開きの形が見える。蒸気の向こうの手、のれん越しの朝の光、並んだ草餅。そこに麻美の文章が入ると、誌面はようやく呼吸を始めた。

「よし、一回目、いける」
 
 編集長のその一言で、室内の空気が少しだけ緩んだ。誰かが椅子へもたれ、誰かが冷えたコーヒーを飲み切る。麻美もようやく背筋を伸ばしたが、その瞬間、机の端に積んでいた資料がずるりと崩れた。

「あっ」

 クリップでまとめていなかった取材メモが、通路にばらばらと散る。しゃがみ込んだところへ、もう一人分の影が差した。

「そこ、持つ」
 
 明だった。会議室から戻ってきたばかりらしく、首からまだカメラが下がっている。二人で同時に紙を拾い集める。手がぶつかりそうになって避け、また別の紙へ手を伸ばす。そんな小さなすれ違いが、妙に落ち着かない。

「ごめん」
「ううん」
「これ、順番ある?」
「日付順だから、右上の番号見て」

 明は指示された通りに紙をそろえ、手早く束へ戻していく。高校の頃、文化祭の備品を片づける時も、彼はこういう作業が早かった。散らかった物を見ると、文句を言うより先に手が動く人だった。

 最後の一枚を拾い上げた時、麻美の指先からボールペンが転がった。床を跳ねて階段のほうへ行きかける。それを明がとっさに足で止めた。

「だいじょぶだべか」

 その一言に、麻美は顔を上げた。

 東北訛り。

 普段の明は、きれいすぎるくらい標準語だ。地元へ戻ってきても、それをほとんど崩さない。だからこそ、今の言葉は、思ってもみない場所から胸へ入ってきた。

 明自身も言ってから気づいたらしく、わずかに目を逸らして咳払いをした。

「……ごめん。今のは」
「ううん」
「別に、深い意味はない」
「わかってる」
 
 わかっているのに、全然わかっていない。胸の内側が急に忙しくなって、うまく息を吐けない。高校の帰り道、麻美が自転車のチェーンを外した時、明がしゃがみ込んで直しながら「だいじょぶだがら」と言った記憶が、一気に蘇ってしまったからだ。

 その時の明は、もっと無防備で、近かった。

 今目の前にいる明は、大人になって、距離の取り方を覚えている。なのに、言葉の端だけが昔へ戻る。そのことが、どうしようもなく嬉しくて、同時に苦しかった。

 仕事を終えて外へ出ると、夜の空気は思ったより冷えていた。駅前の自販機の灯りが白く浮いている。麻美がマフラーを巻き直していると、背後から晃聡の声が飛んできた。

「おーい。校了おつかれ」
 
 どうやら「文明」の閉店後らしく、晃聡は薄い上着を羽織って立っていた。手には紙袋が下がっている。

「差し入れの残り。サンドイッチ。持ってけ」
「いいの」
「いい。明日になるとしなしなになる」
「理由が現実的」
「店やってるとそうなる」

 晃聡は紙袋を麻美に渡しかけて、途中でにやりとした。
「で?」
「何が」
「何かあった顔してる」
「何も」
「ある時の“何も”だ」
「ないって」
「ないわけないだろ。顔がもう、“脈が一拍増えました”って書いてある」
 
 そこで麻美は、思わず吹き出した。晃聡は人の動揺を見つけるのが早すぎる。

「……東北訛り、出た」
「誰が」
「わかってるくせに」
「わかってる。で?」
「で、って」
「そりゃ、だいぶ気ぃ抜けてるな」
 
 晃聡は面白がるより先に、少しだけ真面目な顔をした。

「おまえの前で出たんだろ」
「たまたまだよ」
「たまたまでも出ないやつは出ない」
「分析しないで」
「する。俺こう見えて人間観察得意」

 そう言いながらも、それ以上は茶化さなかった。代わりに紙袋を麻美の胸元へ押しつける。

「帰って食え。脳みそ糖分足りてない」
「サンドイッチで?」
「文明の卵サンドは糖分判定に入る」
「雑」
「雑なくらいが今日のおまえにはちょうどいい」

 笑いながら別れ、麻美は駅までの道をひとり歩いた。紙袋から、ほんのりパンの匂いがする。さっきの一言を思い返すたび、胸の奥がふわりと持ち上がって、すぐにまた沈む。

 だいじょぶだべか。

 たったそれだけだ。深い意味なんて、たぶん本当にない。けれど、ないからこそ困る。意識して選んだ言葉ではなく、思わずこぼれた言葉のほうが、人の本当の近さを測ってしまうことがある。

 帰宅してサンドイッチを皿へ移し、ひとくち食べてから、麻美は携帯を手に取った。誰かに言いたいのに、誰にも言いたくないような気持ちの置き場がなくて、結局、晃聡とのやりとりの画面を開く。

 少しだけ迷ってから、短く打ち込んだ。

 どうにかなりそうです。

 送信すると、すぐに既読がついた。返ってきたのは、文字ではなく、湯気の立つコーヒーカップの写真だった。たぶん「文明」のカウンターで撮ったものだろう。その雑な励ましが、なんだかありがたくて、麻美は小さく笑った。

 何がどうにかなりそうなのか、自分でもまだわからない。ただ、十年前に止まったままだと思っていたものが、少しだけ動いた気がする。そんな夜だった。
【終】
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