初恋はまだ終わらない、隣の席で
第7話 おこぼれのサンドイッチ

 翌週の火曜日、麻美と明は、商店街の西側にある小さなパン屋へ向かっていた。白い看板に青い文字で「むぎの灯」と書かれた店で、朝六時から焼き始める食パンが町内会でも評判らしい。今回の取材相手は、その店を四十年近く二人で続けてきた夫婦だった。

 十一時前の店内は、焼き上がりの名残の匂いで満ちていた。棚には卵サンド、ハムカツサンド、コロッケパン、丸いあんぱん。ガラス越しに見える厨房の奥で、主人が天板を洗い、奥さんが売り場の札を差し替えている。

「こんにちは。まちあかりの篠崎です。今日はよろしくお願いします」
 
 麻美が声をかけると、奥さんは両手の粉を払って笑った。頬に小麦粉が一筋ついている。

「はあい。こんな店で恋の話になるのかしらねえ」
「なると思います」
「言い切るのね」
「言い切らないと、今日は始まらないので」

 その返しに、奥さんがくすりと笑った。店主の男性は無口そうな顔をしていたが、明がカメラを構える前に棚の照明を一つ落とし、窓側のカーテンを指先でずらした。光がパンの表面へ斜めに差し、乾いた粉が細かく浮いた。

「ありがとうございます」
 明が言うと、店主は短くうなずいた。
「そっちのが、うまそうに見えっぺ」
 
 東北訛りの混じる声に、麻美は反射的に明のほうを見た。明は何でもない顔でレンズを調整していたが、口元だけ少しだけ緩んでいる。

 聞き書きは、売り場の隅にある二人用の小さなテーブルで始まった。出会いは二十代のころ、同じ製パン学校の研修先。結婚を決めた理由は「朝三時に起きても、この人なら話しかけられると思ったから」。奥さんはそう言って、店主の湯呑みへ黙ってお茶を足した。店主は何も言わず、その湯呑みを少し奥へ寄せて、奥さんのメモ帳が濡れないようにした。

 大げさな言葉は一つもないのに、長く一緒にいる二人の呼吸が、ひどくよく見えた。

「若いころはねえ、喧嘩もしたの。売れ残りが多い日は、パンよりこっちの機嫌のほうが先に固くなるし」
「奥さんがようしゃべるからな」
「あなたがしゃべらないからでしょう」

 やり取りのたびに、明のシャッター音が一定の間隔で入る。以前より、被写体との距離がほんの少し近い。笑う前の口元、話を遮らずに待つ手、テーブルの上で向きを変える湯呑み。麻美はノートを取りながら、その変化に気づいていた。

 取材が終わるころには、売り場のパンはかなり減っていた。奥さんがトレーを見回し、棚の端へ残ったサンドイッチをまとめる。

「これ、持ってって」
「え、そんな」
「いつも取材って、お昼ずれるでしょう。うち、これから夕方分も焼くから、残しても味が落ちるだけだもの」
 
 紙袋へ入れられたのは、卵サンドと、きゅうりの薄いハムサンド、それから耳を落とした端の部分を焼き直した小さなラスクだった。麻美が遠慮しかけるより早く、店主がぽつりと言う。

「おこぼれ。うちの、いちばんうまいとこ」
 
 その言い方がなんだか愛嬌があって、麻美は笑って受け取った。

 店を出ると、正午の陽射しが強くなっていた。商店街のアーケードを抜け、郵便局の裏手にある小さなベンチへ腰を下ろす。ベンチの背後では、古い桜がもうほとんど葉桜に変わっていた。

「食べる?」
「うん」
 
 麻美が紙袋を開くと、ふわりと卵とパンの匂いが立つ。明は少しだけ迷ってから、紙ナプキンを一枚抜いて麻美へ差し出した。

「先に」
「ありがとう」

 その一動作があまりに自然で、かえって意識してしまう。麻美は卵サンドを持ち上げた。白いパンの間から、刻んだゆで卵と胡椒がのぞく。ひとくち食べると、少し甘い卵のあとから、粒マスタードの細い刺激が追いかけてきた。

「おいしい」
「うん」
「卵がちゃんと卵の味する」
「感想が小学生みたい」
「褒めてるの」
「わかる」

 明もハムサンドをひとくちかじり、静かに笑った。高校生のころなら、もっと気安く半分こしたり、相手の手もとをのぞき込んだりしたかもしれない。今は、その少し手前でちゃんと止まる。止まるのに、居心地が悪くない。

「さっきの夫婦、いいね」
 麻美が言うと、明は紙袋の口を折りながら視線を前へ向けた。
「無理がなかった」
「うん。好きですって言わなくても、好きってわかる感じ」
「仕事の動きで出てた」
「湯呑みの置き方とか」
「パン並べる順番とか」
 
 同じところを見ていたのだとわかって、胸の内側が少しだけ温かくなる。

 明が鞄からカメラを取り出し、液晶画面を麻美へ向けた。さっきの夫婦の写真が数枚並ぶ。棚の前に立つ奥さんの横顔。食パンの袋を閉じる店主の手。最後の一枚に、二人が同時にトングへ触れそうになって、少しだけ笑った瞬間が映っていた。

 麻美は息を止めた。

「……これ、いい」
「そう」
「前だったら、ここ撮ってた?」
 
 明はすぐには答えなかった。しばらく画面を見つめたあとで、短く言う。

「たぶん、撮ってない」
「なんで」
「仕事の邪魔になると思ってたから」
「今日は?」
「邪魔しなかった」
 
 それだけの答えなのに、妙に深く残った。邪魔になるかどうかで線を引いていた人が、今日は踏み込みすぎなかった。たぶん、その違いは小さいようで小さくない。

 麻美がラスクの袋を開けようとして手間取ると、明が指先で端をつまんで切り口を広げた。触れたのは袋だけなのに、妙に近く感じる。

「ありがとう」
「どういたしまして」
 
 言葉のあとに、短い沈黙が落ちた。気まずさではなく、食べ物の匂いと春の風の中に置いておける沈黙だった。

 食べ終わるころ、商店街のスピーカーから午後の時報が流れた。遠くで自転車のベルが鳴る。郵便配達の人が坂を上っていく。特別なことは何も起きていない。けれど、麻美はふいに思う。こういう何でもなさの中へ、人は少しずつ入り込んでいくのかもしれない、と。

 立ち上がる前に、明が紙袋の底を見て言った。
「ラスク、一枚残ってる」
「食べれば」
「麻美がもらったおこぼれだろ」
「じゃあ半分」
「……それ、高校の時も言ってた」
 
 懐かしさが、先に笑いになってこぼれた。

「覚えてるんだ」
「忘れてない」
 
 返事はあっさりしていたのに、麻美の胸の奥で、その一言だけが静かに波を立てた。忘れていない。たったそれだけで、今日の午後はもう少しだけ、やさしく進める気がした。
【終】

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