初恋はまだ終わらない、隣の席で
第8話 パズルの欠けた一片
木曜日の午後、麻美は録音機とノートを鞄へ入れ、彩奏のピアノ教室へ向かった。商店街から十分ほど歩いた住宅地の角にある小さな教室で、白い塀の向こうからは、まだたどたどしいハ長調が何度も聞こえてくる。
門を開けると、玄関脇の植木鉢に薄紫のパンジーが並んでいた。子どもの手で挿したらしい札が一本ずつ立っていて、「さくら」「ゆず」「ひかる」と、ひらがなで名前が書かれている。彩奏の教室は、弾く場所というより、誰かが少しだけ自信を持って帰る場所に見えた。
「いらっしゃい」
玄関の扉を開けた彩奏は、エプロンのポケットへ鉛筆を差していた。いつものように、声がやわらかい。けれど、次の瞬間、麻美の後ろに立つ明を見て、目だけ少しだけ細くなった。
「二人で来ると、取材っぽい」
「取材だよ」
「そうだった」
笑いながら通されたレッスン室は、木の匂いがする明るい部屋だった。壁に簡単な楽譜、窓辺に観葉植物、その横の棚には、積み木や折り紙と一緒に色とりどりの箱が並んでいる。床には、誰かが広げたままらしい大きなジグソーパズルが置かれていた。青空と海と、白い灯台の絵。けれど右下の角だけ、一片足りない。
「生徒さんの?」
「うん。小一の子がね、あと一個ってところでお母さん来ちゃって、そのまま飛んで帰った」
「惜しい」
「本人は全然惜しんでなかったよ。『また今度でいい』って」
彩奏はそう言いながら、床へ落ちていた一片を探すように、視線だけをゆるく動かした。
今日は、音楽教室そのものではなく、「子どもの習いごとと家族の時間」のような切り口で話を聞く予定だった。けれど、彩奏が子どもたちへ接する様子は、恋や家族をテーマにした今回の特集とも、案外遠くない場所にあった。
レッスンの合間、年長くらいの男の子が、右手だけで「きらきら星」を弾いた。途中で一音外して、顔がしゅんとする。けれど彩奏はすぐには止めなかった。最後まで弾き切らせてから、椅子の横へしゃがむ。
「いまの最初の入り方、好きだったよ」
「まちがえた」
「うん。でも、いい音だった。次はそこに、あと一個だけ乗せてみようか」
男の子は少しだけ考えてから、うなずいた。泣かなかった。怒られないとわかるだけで、子どもの背中はちゃんと伸びるのだと、麻美は思った。
明のシャッター音が、今日はさらにやわらかい。彩奏が子どもと目線を合わせる瞬間、間違えた手を責めずに次の音へつなぐ指先、椅子の下で揺れる小さな足。情報より先に気配を拾っている撮り方だった。
レッスンがひと区切りついたあと、彩奏は麦茶を三つ持ってきた。コップの表面に薄く水滴がついている。
「商店街の取材、どう?」
「じわじわ集まってる」
麻美が答えると、彩奏はうれしそうに眉を上げた。
「いいね。身近な話のほうが、あとから効くんだよね」
「あとから効く?」
「その時はふうんって聞いてても、夜になって思い出す話」
言い方が彩奏らしくて、麻美は少し笑った。たしかに、今取材している恋の話はどれも、読んだ瞬間に大騒ぎする類のものではない。けれど、台所で皿を拭いている時とか、寝る前の静かな時間とかに、ふっと戻ってくる気がする。
床のパズルへ目をやると、明がしゃがみ込んで欠けた一片の周りを見ていた。
「見つかった?」
「いや。たぶんこの部屋のどこかにはある」
「なくても何の絵かわかるけどね」
彩奏が何気なく言う。麻美はその言葉に、なぜかすぐ返せなかった。
「一個なくても?」
「うん。灯台だって海だって空だって見えてるもん。最後の一個が入ったら気持ちはいいけど、なくても絵そのものが消えるわけじゃないでしょ」
なくても絵そのものは消えない。
その言葉が、麻美の胸の内側へ、妙に静かに入ってきた。明との十年前の記憶も、たぶんそうだ。肝心な一言が欠けている。あの時なぜ何も言わずにいなくなったのか、その一片だけがずっと見つからない。けれど、欠けているからといって、あの頃の景色そのものが全部なかったことになるわけではない。
棚の上に、小さな石が置かれているのが見えた。黒に見えるのに、窓の光を受けた端だけ茶色く透けている。
「これ、きれい」
麻美が指先で示すと、彩奏は棚からそれを取り上げた。
「マホガニーオブシディアン。黒曜石の一種」
「黒に見えるのに、茶色い」
「光が当たると、筋が見えるんだよ」
彩奏は窓際へ移動して石をかざした。たしかに、暗く見えていた表面に、細い茶色の模様が浮かぶ。
「見えないからない、じゃないんだよね。角度が違うだけで、ちゃんとある」
その言葉に、麻美はただうなずいた。いまはまだ、うまく感想にできない。
明が石と彩奏の手もとを、そっと一枚撮った。彩奏が「それも仕事?」と笑う。
「一応」
「一応って便利だね」
「便利」
軽いやり取りのあとで、小学生の女の子がレッスンへ入ってきた。ランドセルから楽譜を出す拍子に、床のパズルへ靴下のつま先が当たる。ぱたり、と机の下から一片が滑り出てきた。
「あ」
女の子が拾い上げると、ちょうど右下の角のピースだった。
「ほら、あった」
彩奏が笑う。
「ほんとだ」
「なくなってたんじゃなくて、ちょっと見えなくなってただけ」
麻美はその一片が、灯台の下の白い石段へはまるのを見ていた。最後の小さな音で、絵全体がぴたりと落ち着く。胸のどこかで、それに似た感覚がした。
取材メモをまとめながら、麻美は気づく。人の気持ちも、過去の出来事も、全部きれいに説明がつく日ばかりではない。欠けたままでも見えているものがある。見えているのに、自分が認めないでいることも。
帰り際、彩奏が玄関まで見送りに出た。靴を履く麻美の横で、明がカメラケースの蓋を閉じる。
「写真、最近ちょっとやわらかいね」
彩奏が何でもないふうに言うと、明の手が一瞬だけ止まった。
「そう見える?」
「見える。前は、上手だけど入ってこない写真だった」
「ひどい」
「褒めてる途中」
彩奏は笑って、続ける。
「今は、見てる人の呼吸が一拍深くなる感じ」
明はそれに何も返さず、ただ肩をすくめた。照れた時の、昔と同じしぐさだった。
帰り道、麻美は教室の門を出てからも、しばらくその一片のことを考えていた。欠けていたから見えなかったのではなく、見つかる場所が少しずれていただけかもしれない。そう思っただけで、長く固まっていた何かが、ほんの少しだけ動く気がした。
【終】
木曜日の午後、麻美は録音機とノートを鞄へ入れ、彩奏のピアノ教室へ向かった。商店街から十分ほど歩いた住宅地の角にある小さな教室で、白い塀の向こうからは、まだたどたどしいハ長調が何度も聞こえてくる。
門を開けると、玄関脇の植木鉢に薄紫のパンジーが並んでいた。子どもの手で挿したらしい札が一本ずつ立っていて、「さくら」「ゆず」「ひかる」と、ひらがなで名前が書かれている。彩奏の教室は、弾く場所というより、誰かが少しだけ自信を持って帰る場所に見えた。
「いらっしゃい」
玄関の扉を開けた彩奏は、エプロンのポケットへ鉛筆を差していた。いつものように、声がやわらかい。けれど、次の瞬間、麻美の後ろに立つ明を見て、目だけ少しだけ細くなった。
「二人で来ると、取材っぽい」
「取材だよ」
「そうだった」
笑いながら通されたレッスン室は、木の匂いがする明るい部屋だった。壁に簡単な楽譜、窓辺に観葉植物、その横の棚には、積み木や折り紙と一緒に色とりどりの箱が並んでいる。床には、誰かが広げたままらしい大きなジグソーパズルが置かれていた。青空と海と、白い灯台の絵。けれど右下の角だけ、一片足りない。
「生徒さんの?」
「うん。小一の子がね、あと一個ってところでお母さん来ちゃって、そのまま飛んで帰った」
「惜しい」
「本人は全然惜しんでなかったよ。『また今度でいい』って」
彩奏はそう言いながら、床へ落ちていた一片を探すように、視線だけをゆるく動かした。
今日は、音楽教室そのものではなく、「子どもの習いごとと家族の時間」のような切り口で話を聞く予定だった。けれど、彩奏が子どもたちへ接する様子は、恋や家族をテーマにした今回の特集とも、案外遠くない場所にあった。
レッスンの合間、年長くらいの男の子が、右手だけで「きらきら星」を弾いた。途中で一音外して、顔がしゅんとする。けれど彩奏はすぐには止めなかった。最後まで弾き切らせてから、椅子の横へしゃがむ。
「いまの最初の入り方、好きだったよ」
「まちがえた」
「うん。でも、いい音だった。次はそこに、あと一個だけ乗せてみようか」
男の子は少しだけ考えてから、うなずいた。泣かなかった。怒られないとわかるだけで、子どもの背中はちゃんと伸びるのだと、麻美は思った。
明のシャッター音が、今日はさらにやわらかい。彩奏が子どもと目線を合わせる瞬間、間違えた手を責めずに次の音へつなぐ指先、椅子の下で揺れる小さな足。情報より先に気配を拾っている撮り方だった。
レッスンがひと区切りついたあと、彩奏は麦茶を三つ持ってきた。コップの表面に薄く水滴がついている。
「商店街の取材、どう?」
「じわじわ集まってる」
麻美が答えると、彩奏はうれしそうに眉を上げた。
「いいね。身近な話のほうが、あとから効くんだよね」
「あとから効く?」
「その時はふうんって聞いてても、夜になって思い出す話」
言い方が彩奏らしくて、麻美は少し笑った。たしかに、今取材している恋の話はどれも、読んだ瞬間に大騒ぎする類のものではない。けれど、台所で皿を拭いている時とか、寝る前の静かな時間とかに、ふっと戻ってくる気がする。
床のパズルへ目をやると、明がしゃがみ込んで欠けた一片の周りを見ていた。
「見つかった?」
「いや。たぶんこの部屋のどこかにはある」
「なくても何の絵かわかるけどね」
彩奏が何気なく言う。麻美はその言葉に、なぜかすぐ返せなかった。
「一個なくても?」
「うん。灯台だって海だって空だって見えてるもん。最後の一個が入ったら気持ちはいいけど、なくても絵そのものが消えるわけじゃないでしょ」
なくても絵そのものは消えない。
その言葉が、麻美の胸の内側へ、妙に静かに入ってきた。明との十年前の記憶も、たぶんそうだ。肝心な一言が欠けている。あの時なぜ何も言わずにいなくなったのか、その一片だけがずっと見つからない。けれど、欠けているからといって、あの頃の景色そのものが全部なかったことになるわけではない。
棚の上に、小さな石が置かれているのが見えた。黒に見えるのに、窓の光を受けた端だけ茶色く透けている。
「これ、きれい」
麻美が指先で示すと、彩奏は棚からそれを取り上げた。
「マホガニーオブシディアン。黒曜石の一種」
「黒に見えるのに、茶色い」
「光が当たると、筋が見えるんだよ」
彩奏は窓際へ移動して石をかざした。たしかに、暗く見えていた表面に、細い茶色の模様が浮かぶ。
「見えないからない、じゃないんだよね。角度が違うだけで、ちゃんとある」
その言葉に、麻美はただうなずいた。いまはまだ、うまく感想にできない。
明が石と彩奏の手もとを、そっと一枚撮った。彩奏が「それも仕事?」と笑う。
「一応」
「一応って便利だね」
「便利」
軽いやり取りのあとで、小学生の女の子がレッスンへ入ってきた。ランドセルから楽譜を出す拍子に、床のパズルへ靴下のつま先が当たる。ぱたり、と机の下から一片が滑り出てきた。
「あ」
女の子が拾い上げると、ちょうど右下の角のピースだった。
「ほら、あった」
彩奏が笑う。
「ほんとだ」
「なくなってたんじゃなくて、ちょっと見えなくなってただけ」
麻美はその一片が、灯台の下の白い石段へはまるのを見ていた。最後の小さな音で、絵全体がぴたりと落ち着く。胸のどこかで、それに似た感覚がした。
取材メモをまとめながら、麻美は気づく。人の気持ちも、過去の出来事も、全部きれいに説明がつく日ばかりではない。欠けたままでも見えているものがある。見えているのに、自分が認めないでいることも。
帰り際、彩奏が玄関まで見送りに出た。靴を履く麻美の横で、明がカメラケースの蓋を閉じる。
「写真、最近ちょっとやわらかいね」
彩奏が何でもないふうに言うと、明の手が一瞬だけ止まった。
「そう見える?」
「見える。前は、上手だけど入ってこない写真だった」
「ひどい」
「褒めてる途中」
彩奏は笑って、続ける。
「今は、見てる人の呼吸が一拍深くなる感じ」
明はそれに何も返さず、ただ肩をすくめた。照れた時の、昔と同じしぐさだった。
帰り道、麻美は教室の門を出てからも、しばらくその一片のことを考えていた。欠けていたから見えなかったのではなく、見つかる場所が少しずれていただけかもしれない。そう思っただけで、長く固まっていた何かが、ほんの少しだけ動く気がした。
【終】