アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
 ――契約上とはいえ、これからわたし、彼の妻になるの?

 心の中で自問自答しながら必死に視線を逸らす。
 紬希の心境など気にすることなく、奏は淡々と話を続ける。

「婚姻は形式のみ。期間は一年。対外的には妻として振る舞ってもらうが、基本的に私生活への干渉はしない」

 どこまでも冷静な声音が紬希を正気に戻す。
 自分がこの場にいるのは"役割"でしかない。それでいい。
 そう思ったはず、なのに。
 ……あの夜の音を知っている分だけ、この冷たさがどこか寂しい。

「報酬は提示した通りだ。家族の件についてはこちらで対処する」

 その一言で、紬希は現実に引き戻された。
 ぎゅっと、スカートの上で手を握る。
 封筒の中身を思い出す。領収書。借用書。弟の顔。

 ――迷う理由なんて、どこにもない。
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