アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
落ちてくる声は、驚くほど事務的で、抑揚が存在していない。
あの夜とは、まるで違う。
あの夜の声には、何か——音楽みたいな揺らぎがあった。低く静かで、それでいて密かな熱を持っていた。
今の声は、あまりにも整然としている。感情の入る余地がどこにもない。
距離を突きつけられたようで、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
――ここは舞台じゃない。これは契約の場なんだもの。
「はい。すべて理解しています」
コンサートの時に着ていたナイトドレスで正装しているわけでもない、結い上げていた髪だって、いまはヘアゴムでひとつに束ねているだけの貧相な状態だ。彼女があのときの女だと気づく方がおかしいだろう。
紬希はそう結論して、できるだけ感情を混ぜずに答えた。
たぶんきっと、これがこの場での正解だろうから。
「……そうか」
そう言って、彼はゆっくりとソファに腰を下ろす。
長い脚が組まれる。
その何気ない仕草ひとつに、なぜか視線が引き寄せられた。
ピアニストの指が、さりげなくテーブルの端にふれる。
それだけで、ここが彼の空間なのだと理解してしまった。