アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
それなのに、気がついたら帰宅を急ぐようになっていた。彼女の「おかえり」、という声が聞きたくて。
朝も夜も、一緒に食卓に座って食事をするようになっていた。彼女の「美味しいです」、という笑顔が見たくて。
深夜に目が覚めたときも、隣の部屋に気配があることで、眠れるようになっていた。
家のなかだけではない。ヨーロッパに行った際も、そうだった。
見慣れない街で、紬希が戸惑っているのを見ると、迷子の子どもみたいで放っておけなかった。
演奏後の楽屋で、“子供の情景”を聴いた紬希が泣いていたのを見て――何かが、動いた。
――俺は。
紬希の寝顔を、横目で見ながら、奏は想う。
穏やかな表情。少し開いた唇。ふれると柔らかく、あたたかくて――愛おしさすら感じるのはなぜなのか。
――紬希、を?
その先を、考えるのをやめ、ぷいっと窓の外を向く。
流れていた景色はいつしかトンネルに入って見えなくなっていた。
それでも肩の重みは、そのまま残して、瞳を閉じた。