アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
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軽井沢から屋敷に戻った夜、奏は一人でピアノの前に座っていた。
紬希は先に眠っている。疲れているだろうと、今夜は一人にした。
弾くつもりはなかったのに、なぜか腰を下ろしていた。
鍵盤の前に座ると、落ち着くからだ。子どもの頃からそれは変わらない。
何かあると、ピアノの前に座るのが常だった。悲しいときも、怒っているときも、どうにもならないときも。
音を出せば、少しだけ楽になるからだ。
――だが、今夜は音を出せない。出したら、きっと……認めることになる。
奏は苦しそうに鍵盤を見つめる。白と黒が規則正しく並ぶ鍵盤を前に、浮かんだのはヴェルレーヌの詩だ。
『幸せを決して信じていないように見え』
――あれは……俺のことだと、紬希は思っていたのだろうか。正解だ。
愛を信じることをやめてから、どのくらいの月日が経つだろう。音大を卒業するや否や両親が亡くなり屋敷を引き継ぐことになり、伯父が率いることになった財団の客寄せパンダとしてピアノ興行に邁進するようになったなかで過去の恋人に裏切られた。自分に家族と呼べる人間はもはやいない。孤高のピアニストと揶揄されようがそれで構わないと思っていた。感情を排した方が、傷つかないからだ。