アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
そう決めて、そう生きてきた、のに。
――紬希は。
評価でも賞賛でもなく、ただ音そのものを聴いていた。
あの夜のコンサートで、客席に残って俺が取りこぼしたと思っていた音の余韻を味わってくれていた。
「ひとりじゃない気がします」と言っていた彼女に本質を見抜かれてしまった。
――彼女は俺が聴かせたかった言葉を、誰よりも先に、言ってくれた。
奏は、そっと一音だけ押す。
ピアノの音が、じんわりと夜の屋敷に広がる。
それはシューマンの“幻想曲ハ長調”の冒頭――結婚間近のクララへの愛を書いた、あの曲の一節だ。
だが、史実ではクララの父がシューマンとの結婚を猛反対して訴訟するなどと騒いでいた頃の曲である。陳腐で情熱的な旋律でありながら、演者によって音のトーンは変容する。コンサートでは華やかな第一楽章冒頭だが、奏の指が鳴らした今宵の音はどこかペールトーンだ。