アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
「これは私の問題だ」
彼女に告げた言葉を唇に乗せる。
本当のことだ。
だが——本当に言いたかったことは、違う。
――俺は、紬希が心配なんだ。
言えなかった。言えるはずがない。
この感情に名前をつけてしまったら――もう、元には戻れない。
奏は、ゆっくりと壁から手を離す。
廊下の奥に、紬希の部屋がある。
扉の向こうで、いまも彼女が泣いているかもしれない。泣いていないかもしれない。
どちらにしても――今夜は、もう顔を見せられない。
自分が、何を言ってしまうか、自分でもわからないから。
――俺は。
奏は、小さく息を吐く。
静かな廊下に、その音だけがかすかに響く。
その夜、奏はピアノの前に座らなかった。
音を出したら、すべて、溢れてしまいそうだったから。