アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

「これは私の問題だ」

 彼女に告げた言葉を唇に乗せる。
 本当のことだ。
 だが——本当に言いたかったことは、違う。

 ――俺は、紬希が心配なんだ。

 言えなかった。言えるはずがない。
 この感情に名前をつけてしまったら――もう、元には戻れない。
 奏は、ゆっくりと壁から手を離す。
 廊下の奥に、紬希の部屋がある。
 扉の向こうで、いまも彼女が泣いているかもしれない。泣いていないかもしれない。
 どちらにしても――今夜は、もう顔を見せられない。
 自分が、何を言ってしまうか、自分でもわからないから。

 ――俺は。

 奏は、小さく息を吐く。
 静かな廊下に、その音だけがかすかに響く。
 その夜、奏はピアノの前に座らなかった。
 音を出したら、すべて、溢れてしまいそうだったから。
< 147 / 224 >

この作品をシェア

pagetop