アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
「奥様……本当に、よろしいのですか」

 紬希は、笑って頷く。笑えていた、と思う。

「はい。よろしくお願いします」

 佐伯はそれ以上何も言わなかった。ただ深く、頭を下げる。
 紬希は手紙と鍵をテーブルに置いて、車を呼ぶこともなく屋敷を出た。
 そして、高く青く澄んでいる秋の空を背に、歩きだす。十月の冷たい風が、街路樹の葉を揺らしていた。
 門を出たときに、一度だけ振り返った。そこには誰もいない。銀杏の葉が、少しずつ黄色に変わり始めている。
 名残惜しそうな表情を一瞬だけした紬希はその想いを振り切るように深呼吸した。
 屋敷の門が、遠ざかっていく。
 あの屋敷で過ごした日々が――まるで夢だったかのように、遠くなっていく。
 パリの石畳。ウィーンの夜空。軽井沢の朝の空気。奏のピアノの音……。

 ――あの時間は、ひとりじゃなかった。

 紬希は、前を向いて足を動かし続ける。
 秋の光は街路樹の隙間からきらきらと降り注いでいる。
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