アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
* * *
まもなく国内四都市をまわるコンサートが始まる。その第一弾である東京でのリハーサルが再開した。
無言で会場に入った奏を見て、スタッフたちが顔を見合わせている。今までは同行していた妻の姿がないことに気づいているだろうが、彼らは何も言わない。
だが、その視線は雄弁だった。
奏は気にするそぶりを見せることなく鍵盤の前に座った。
シューマンの“幻想曲ハ長調”。今月の公演のプログラムのひとつだ。
淡々と弾き始める。
音は出る。技術的には、何も問題がない。指は動く。テンポも正確だ。
運指は正確なはず……。
――違う。これじゃ、ない。
自分でも分かる。何かが、根本的に欠けている。音が、届かない。
鍵盤から出て、空気を揺らして、そこで止まってしまう。