アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
* * *
リハーサルを切り上げて、奏はひとりで楽屋に残った。
スタッフが心配そうに声をかけてくれたが、「大丈夫だ、先に帰ってくれ」と告げた。
誰もいなくなった楽屋で、奏はソファに腰を下ろす。
両手をまじまじと見つめる。
自分がピアニストであることを証明する手。幼い頃から何十年も鍛えてきた手。
――なぜ、動かない?
技術的な問題ではない。
体力的な問題でもない。
精神的な問題だ。なぜなら音が、どこにも向かっていないのだから。
いつもは、弾きながら自然と「誰かに届けたい」という衝動が存在していた。
客席の誰か。遠くの誰か。それなのに今夜は……いないのだ。相手が。