アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
* * *
その夜、奏は一人でピアノの前に座っていた。
弾くつもりはなかったのに、ピアノの前に座って、鍵盤に向き合っていた。
鍵盤の前に座ると、少しだけ落ち着く……子どもの頃からそうだった。
どうにもならないときは、ピアノの前に座るのが、奏の習慣だった。
今夜も、どうにもならない。
伊織の言葉が、頭の中で繰り返される。
『あなたのことが好きだから、余計に傷ついたんじゃないかしら』
――好き?
紬希が、俺のことを。
そう言われても、実感が湧かない。
あの手紙を読んでも、実感が湧かなかった。
それでも、あの夜の紬希を思い出すと、そうなのかもしれないと、心がざわついた。