アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
そして迎えたコンサート当日の朝。
奏がコーヒーを飲みながら、不意に口にした。
「今日は何の日か分かるか」
紬希は、トーストを口に運ぶ手を止める。
少し考えて……気づいた。
「……契約結婚した日、ですね」
一年前のこの日。紬希は家族のために一年間だけという契約で、見知らぬ芸術家の妻になる覚悟を決めて、多賀宮家を訪れたのだ。
奏は、コーヒーカップを置いて、手を叩く。
「ご名答」
それだけだった。
それだけなのに、紬希の胸が温かくなる。
――覚えていてくれたんだ。
あの日。面談の部屋で、初めて目が合ったときのことを、紬希は覚えている。
指先がふれて、心臓が跳ねるなか、契約書におそるおそる名前を書いた、運命の日。
あの日は――いま、別の意味を持つ記念日になっている。
「奏さん」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
奏は、少し眉を上げた。
「礼を言われるようなことじゃない」
「いいえ」
紬希は、笑った。
「結婚記念日を覚えていてくれて、ありがとうございます」