アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
幼い頃に習ったピアノのことを思い出す。父が生きていた頃にお嬢様として傅かれていた自分にとって、ピアノの音は過去の栄光と郷愁を思い起こさせる。あのピアノはきっと売られてしまっただろう。だが、紬希はピアノを嫌いになれずにいる。あの夜、見知らぬ芸術家の契約妻になる前に大好きなピアノのコンサートを聴きたいと最後にわがままを言った紬希を母は憐れむように送り出してくれたけれど……。
その、世界的ピアニストが契約妻を求めていたという偶然が、紬希の沈み込んでいた気持ちをわずかに上向かせる。
――どうせなら、ピアニストの妻として一年間しっかり演じ切ろう。
幸いピアノなら知識もある。先方が自分たち家族の窮地を知っているというのならこちらも利用すればいい。
――囁くようなメロディーからはじまる序盤、波打つ中盤、どこまでも透き通った哀しさを伴うアルペジオ。
静かで、低くて、夜の空気に溶けるような旋律は、吟遊詩人が奏でるリュートのように幻想的で、コンサートで聴いたときの完璧な演奏とは少し違っていた。
もっと、個人的で、まるで独り言みたいな音色だった。