アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
 その音に導かれるように……気づいたときには、紬希はベッドから抜け出していた。

 ――やっぱり。ベルガマスク組曲第三章“月の光”だ。

 灯りを落とされた廊下は薄暗い。紬希は足音を立てないよう、そうっと歩く。
 音は、奥から聞こえてきている。音を辿ったその先に、半開きになった扉があった。
 足を止めた紬希はそこに奏がいることを確信し、覗き込む。
 彼は照明を落とした部屋の中で、グランドピアノに向かって一人で”月の光”を演奏していた。
 舞台の上で観たときとは違う、孤独な背中が見える。スポットライトも、拍手も、観客もいないからだろうか。
 それなのに、夜の静寂のなかで自分だけのために弾いている姿がとても印象的だった。
 紬希は、扉の前で息を殺して聴いていた。音が、胸に沁みてくる。
 あの夜のコンサートホールで感じた、あの余韻と――変わらない何かが。

 ――この音を、わたしは知っている。

 やがて、演奏が終わった。
 最後の旋律が夜の空気に溶けて、静寂が戻ってくる。
 奏が、ふっと顔を上げて呟く。

「眠れないのか」
< 32 / 72 >

この作品をシェア

pagetop