アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
振り返りもせずに、そう言う彼に、紬希は少し驚く。
それからそっと扉を押し開けた。
「……気づいていたんですか」
「気配があった」
相変わらず短い返答だ。
奏はピアノの鍵盤に視線を落としたまま動かない。
紬希は部屋の入り口に立ったまま、少しだけ迷って――それから、正直に言った。
「音が聞こえて……つい。これ、ドビュッシーですよね。それも、ポール・ヴェルレーヌが編んだ詩集”艶なる宴”のなかの一遍である”月の光”が由来って言われていている」
「? ……ああ」
「えっとその、わたし特にベルガマス組曲がすきで……ヴェルレーヌが持ち込んだ象徴主義とか、彼が影響を受けたジャン=アントワーヌ・バトーの絵画とか、そういった影響を含めて生み出された旋律が百年以上経ついまも愛されているのがすごいな~、って」
思わず饒舌になる紬希だったが、奏は無表情のまま沈黙を保っている。
紬希は気まずい雰囲気になるのを無視して、胸の中にあったものを、そっと言葉にする。