アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
* * *
三月の終わり、夜の都心はまだ少し肌寒かった。
だが、街路樹の桜が、ほんの少しだけ蕾を膨らませている。
タクシーの窓から見えたその蕾が、今夜だけは遠い世界のもののように感じられた。
会場のホテルに近づくにつれ、街の喧騒が変わる。礼装した人々に、行き交う高級車。扉をあけて案内するドアマンの白い手袋。
このなかに、自分が入ってもいいのだろうか。紬希は、膝の上できつく手を握りしめる。
「何をしている。行くぞ」
隣に奏がいる。それだけが、今夜の唯一の拠り所だ。
紬希は意を決して車から降り、彼のエスコートに従った。
パーティー会場は、都心の高層ホテルの最上階にある。
エントランスに足を踏み入れた瞬間、紬希は息を呑む。
シャンデリアの光が降り注ぐ広間に、集まる礼装した人々。
音楽財団の関係者、スポンサー企業の重役、音楽界の名士たち。
どの顔も、紬希が普段交わることのない世界の住人だった。
隣に立つ奏は、この場の空気を纏うように、自然にそこにいる。彼自身もまた、文化的権威と芸術的名声を持つ多賀宮一族の御曹司として、財団関係者やスポンサーと対等な立場にいるのだ。慣れていないわけがない。
――すごい、別世界だ。
緊張で足がすくみそうになったとき、奏の手が、さりげなく紬希の背にふれた。
ほんの一瞬。それだけで、足が動く。
「多賀宮さん、お久しぶりです」