アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
声をかけてきたのは、四十代とおぼしき壮年の男性だった。財団の理事らしく、奏と言葉を交わし始める。
紬希はその隣で、静かに微笑んでいた。
妻として振る舞うこと。それが、自分の役割だ――そう確認したそのとき。
「まあ、奏さん! ご無沙汰しております」
凛とした声が、会話に割り込んできた。
振り返ると、一人の女性が立っている。
艶やかな黒髪。切れ長の瞳。ヴァ―ガンディ色のドレス。計算された隙のない所作。自分自身を演出することを理解した者特有の、圧倒的な存在感。
音楽家の指らしい長く整った手が、さりげなくシャンパングラスを持っている。ドレスの色に合わせたネイルも完璧で、同性の紬希が見てもその美しさは格別だった。
「三条、さん」
奏の声が、わずかに困惑を帯びている。その変化に紬希は目を瞠る。仏頂面になる奏を前に、女性は紬希に向き直る。