アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
 歩きながら、紬希は小さく息を吐く。

 ――た、助かった。

 奏は何も言わない。前を向いたままずんずん歩いている。
 伊織から距離を置いたにもかかわらず、腰にふれた手はまだそこにあったのが、なんだか滑稽だった。
 それとは別に、伊織と別れて少し経った頃、紬希は不意に奏に向けた射るような視線を感じた。
 紬希が振り返ると、会場の端に一人の女性の姿がある。金髪に近い茶髪と珊瑚色の艶やかなドレス。遠目からも目立つ細く長い指。
 伊織とは違う種類の美しさ――燃えるような、どこか危うい印象を受ける。

 ――テレビで見たバイオリニストに似てる……本人かな?

 目が合った。彼女は、微笑まなかった。
 ただ、紬希を――いや、紬希の隣にいる奏を、じっと見ている。
 その強い視線が、妙に引っかかる。

 ――名前……思い出せないけど、誰だっけ。

 声をかけようとしたとき、奏がさりげなく紬希の背に手を触れた。

「来賓の挨拶がある。行くぞ」

 促されて、紬希は視線を外す。
 振り返ったときには、もうその女性の姿はなかった。
 ただ、あの奏を見つめる瞳だけが、しばらく頭の片隅に残っていた――……。
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