アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
* * *
数日後の午後、紬希は自室のアップライトピアノの前に座っていた。
弾くつもりはなかった。
ただ、鍵盤にふれたくなかっただけ。
父が生きていた頃、毎日弾いていたピアノ。
あの家がなくなってから、ずっと遠ざかっていたピアノ。
そっと、一音だけ押す。
――あ。ちゃんと、調律されてる。
音が、部屋に広がる。
それだけで、胸の奥が少し緩んだ気がした。
やがて、紬希は静かに弾き始める。
それは練習曲でも、華やかな曲でもない。紬希が選んだのは、昔よく弾いていたシューマンの小品のなかのひとつ、”トロイメライ”だ。”子供の情景”の代表曲とも言われている静かで、優しくて、懐かしい感じの一曲だ。
技術は錆びついている。指がもつれる箇所もある。
それでも音を出せることが、今この瞬間はただ嬉しかった。