アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
――俺は彼女を知っている……?
思わず呼び止めかけて――やめる。
いまさら、名前を聞く理由も、関係もない。
彼女はただの、観客のひとり。それだけだ。
それなのに奏の足は動かない。遠ざかる背中を、視線が追っている。
やがてその姿が見えなくなっても、しばらくその場に立ち尽くしていた。
静まり返ったホールに、もう音はない――そのはずだ。
が、奏の胸の奥で、何かが微かに鳴り続けている。
『さっきの、音が……ここに、残っているの』
彼女の言葉が離れてくれない。
消えたはずの音が、確かにそこにあると、奏に伝えた彼女の言葉が。
奏はゆっくりと、自分の胸に手を当てて目を細める。それが何か、奏は知らない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――もう一度、会いたい。
理由のないその衝動だけが、静かに芽生えていた。