アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

chapter,1




 ――来なければ、よかった。

 そう思ったのは、扉の前に立ったときだった。
 気が遠くなりそうな距離がありそうな長い廊下の空気は重く、窓の外にはどんよりとした曇り空が広がっている。どこかで時計が時を刻む音がして、それがやけに大きく響いた。来なければよかった、そう思っても、もう遅い。
 ここで引き返せば、すべてが水の泡。守りたいものも、選んだはずの覚悟も。すべて。
 水瀬紬希は、手の中の封筒をもう一度だけ確かめる。
 弟の治療費の領収書。積み重なった借用書のコピー。
 ……現実は、紬希に感傷を許してくれない。

 ――大丈夫。

 自分に言い聞かせて、小さく息を吸い込んだ紬希はおおきな扉の前で深呼吸する。
 コンコン、と控えめにノックすると、「どうぞ」という低く、落ち着いた声が届いた。
 その一言に、なぜか胸が強く震える。

 ――知っている。わたしは、この声を、どこかで……。

 紬希が扉を開けて室内に足を踏み入れた瞬間、重苦しかった空気が一気に変わった。
 視線が、ぶつかる。
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