アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
* * *
パリの空気は、冴え冴えとしていて冷たかった。
三月の終わり、石畳の上には薄い霧が漂っている。
空港を出た瞬間、紬希は思わず身体を震わせ、目を眇めた。
「寒いか」
隣で奏が淡々と言う。
「……少し」
「ホテルに着いたらコートを変えろ。佐伯が荷物に入れているはずだ」
気遣う様子もなく言い切る姿が彼らしく、紬希は小さく笑った。
「……佐伯さん、何でも準備してくれますね」
「私、いや、俺の指示だ」
今まで紬希の前で自分のことを「私」と口にしていた彼が、「俺」とさりげなく言い直したのが微笑ましい。
そちらに気を取られたせいで、紬希はすぐに気づかなかった。
――待って……奏さんが、指示したの?
振り返ると、奏はすでに前を向いて歩いている。
その背中を見ながら、紬希は己の胸の奥がほのかに温かくなるのを感じていた。