アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
「お父様が?」
「俺が五歳のとき、父が弾いているのを聴いて……真似したくなった。それだけだ」

 それだけ、と言ったが、その声は穏やかだった。

「……父は、もういない」

 そして、低く、静かに付け加えた。
 紬希は何も言えなかった。
 奏の父も、早くに亡くなったのだということを、この瞬間に初めて知った。

「奏、さん」

 川風が吹いて、紬希の髪が揺れる。
 奏が、そちらを見て、ぽつりと問いかける。

「……寒いか」
「少し」

 奏は、何も言わずに歩き出す。
 紬希が後を追うと、奏は歩きながら自分のコートを脱いだ。

「奏さん、それじゃあ自分が寒くなりま……」
「問題ない」

 紬希の言葉を遮って、奏は彼女の肩へコートをかける。奏の体温が、まだ残っているコートは、とてもあたたかかった。

 ――これは、「契約の条件」に入るの?

 戸惑いながらも紬希は礼を口にする。

「ありがとうございます」

 奏は答えなかった。前を向いたまま歩き続けている。
 その横顔が、さっきより少しだけ柔らかい気がしたのは、気のせいではないはずだ。
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