アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

   * * *


 パリ公演、本番当日。
 客席は満員だった。
 紬希はヴァイオレットのナイトドレスで、リハーサルのとき同様に、最前列の脇にある関係者用の席に座っている。

 ――はじまった!

 照明が落ち、奏が舞台に現れた瞬間、空気が変わる。
 拍手の中を歩く姿は、あの夜のコンサートと同じで――それでいて、どこか違う。

 ――もしかして緊張してる?

 気のせいかもしれない。だが、紬希にはそう見えた。
 鍵盤に向かった奏が静まり返った空気のなかで指を動かす。
 最初の一音が、ホールに広がった。

 ――曲目はリハーサル通り、ショパンの“ノクターン第二番変ホ長調”から……。

 紬希は、息を呑む。
 リハーサルとも、深夜のピアノとも違う彼の演奏がそこに在った。
 全力なのに、どこか余白がある音。その場を支配するという点では以前と変わらないのに、彼の音色は絹のように柔らかい。
 完璧なのに、人間の温度がある。
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