アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
最初の音が鳴った瞬間——紬希の体が、止まった。
知っている。この音を、知っている。
シューマンの“子供の情景”。奏は十三曲の短い小品を第一曲”見知らぬ国”から第十三曲”詩人のお話”まで通しで弾いていた。
――お父さんが、よく弾いていた曲だ。
日曜日の午後、陽の当たるリビングで。紬希が膝に乗って、弟の雅希がそばで積み木をしていた。
父の指が鍵盤を動くたびに、音楽が部屋に広がっていたあの頃。
父がいることも、ピアノがあることも、家族四人でいることも当たり前だった日常を彩っていた音楽を……奏が弾いている。
涙が、出そうになる。
――どうして?
こんな場所で泣くわけにはいかない。
紬希は唇を噛んで、天井を見上げる。煌びやかなシャンデリアが眩しくて、一粒だけ涙がこぼれた。
やがて演奏が終わり、その場を割れんばかりの拍手が圧倒する。
紬希は立ち上がれなかった。