アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
「ゆっくり、呼吸してください」
静かに言いながら、奏の背に手を当てる。
奏の手が、縋るように紬希の腕を掴んだ。それは思っていたよりも、強い力だった。
紬希は、何も言わずに彼の手を受け入れる。弱々しい彼の手を振り払うことなどできなかった。
スタッフが水を持ってきて、部屋を出ていく。
楽屋は、二人だけになった。
しばらくして、奏の呼吸が落ち着いてくる。
「……すまない。みっともないところを見せてしまった」
「みっともなくないです」
紬希は、首を振った。
「ずっと完璧でいたら、壊れます」
奏は、少しの間黙っていた。
「……ふと、思い出してしまって」
「何を、ですか」
奏は、紬希の問いに答えなかった。
ただ、立ち上がりながら、ぽつりと言った。
「愛された音は……いつか、裏切られる」
その言葉が、楽屋の空気に溶けた。
紬希は、その意味を問えなかった。
奏の背中が、どこか淋しそうに見えたから。