アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
その回答はお気に召さなかったのだろう、奏は少し眉を寄せて小声で問い返す。
「えーと。素晴らしい、じゃなくて」
紬希は少し考えてから、率直に答える。
「……温かかったです。ずーっと、温かかった」
奏が、目を細める。
「そうか」
彼の返しは短かったが、その声はたしかに嬉しそうに聞こえた。
「……帰ったら、また弾いてやる」
そう言って、奏は先に歩き出す。
「“トロイメライ”を」
それだけ言って、振り返らない。
紬希は、廊下に立ち尽くした。
――“トロイメライ”……わたしが弾いていた、あの曲だ。
聴いていた。やっぱり、彼は聴いていたのだ。
胸の奥で、何かが音を立てていく。
それが何なのか、まだ名前はつけられない。それにきっと、名前をつけてはいけない感情だと、紬希は蓋をする。
――でも……ひとりじゃない気がする。
あの夜、奏に伝えた言葉が、今夜も静かに胸に灯っていた。