アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
   * * *


 ロンドンのホテルに戻った夜、奏は一人でグラスを傾けていた。

『“トロイメライ”を』

 楽屋で紬希にそう言ってしまった瞬間から、奏は自分でも驚いていた。

 ――俺は。なぜ、あんなことを。

 紬希が屋敷で弾いていた、シューマンの”トロイメライ”。
 音は錆びていたし、指ももつれていた。
 それなのに、彼女が紡ぎ出す音色から、耳が離せなかった。

 ――あの音を聴いたとき。なぜかあの夜のコンサートを思い出していた。

 評価でも賞賛でもなく、ただ音を追っていたあの琥珀色の瞳。
 あの客席に残っていた女性が、紬希だったと確信したのは、彼女が”トロイメライ”を奏でたあのときだった。

 ――彼女は俺に、気づいていたはずだ。

 奏とは違って。最初から、ずっと気づいていたから、面談の場で目が合った瞬間に妙な反応をしたのだ。
 奏は、グラスを置く。
 窓の外には、ロンドンの夜景が広がっている。

 ――パリで、セーヌ川を見ていた紬希の顔。
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