アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

 あのとき、ほんの少し言葉を交わしたこと。
 紬希が、あの音に感動して動けなくなっていたことも。
 彼にとってみれば些細なこと、だったのだろう。腑に落ちる。当たり前だ。あれは彼にとって、数えきれないほどある演奏のうちの一夜に過ぎないのだ。客席に残っていた見知らぬ女のことなど、覚えているはずもないだろう。
 紬希は、ぎゅっと指先を握りしめてゆっくりと息を吐く。

 ――ならば、それでいい。

 ただの偶然に惑う必要はない。それに、この場では面識があろうがなかろうが契約にあたっては関係ないはずだ。
 紬希は自分に言い聞かせて、深く頭を下げる。

「水瀬紬希と申します。本日は、お時間をいただきありがとうございます」

 顔を上げるのが、ほんの少しだけ怖かった。視線が絡んだ瞬間、見透かされてしまいそうな気がする。だが、紬希の不安は杞憂に終わった。

「――話は聞いていると思うが」
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