アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

   * * *


 奏の海外遠征から戻って一週間ほど経った五月のある日のことだった。
 午後から紬希は弟の雅希が入院している病院へ出かけていた。いまにも泣き出しそうな灰色の曇り空がもうすぐ訪れそうな梅雨を予感している。
 雅希の病状は落ち着いており、治療が進めば寛解にも近づくだろうと言われている。面会で見た弟は紬希を見て「姉ちゃん、結婚してから綺麗になった?」などと茶化してきた。契約結婚について彼に詳しいことは伝えていないが、母方の祖母の紹介で姉が音楽財団の御曹司と籍を入れたことは知っている。「いつか俺にも紹介して」と言ってきたので「雅希が無事に退院できたらね」と笑って言い返しておいた。そのときには離婚しているだろうけど。
 病院を後にした紬希は駅に向かう途中で降り出した雨を前に唖然とする。折り畳み傘を持っていったものの、風が強すぎて役に立たない。

 ――こんなことなら大きい傘を持って行けば良かったな。
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